イメージが大切だ | バッドチューニング物語

イメージが大切だ

あけましておめでとうございます
tumblr用に書いたブログを持って新年の挨拶とさせて頂きます。
正月で暇な人は読んでみてください。
 30代はたのしいぜ。

生きていく上で厄介なことはいくつもあるが、「限界」というバケモノがいちばんやっかいだ。それは深淵を覗き込む感覚に似ている。深淵というものは底がないから薄ら寒くなり、背筋が凍る。予測の出来ないものへの恐怖と、予測が外れる事の恐怖が綯い交ぜになって襲って来る。「限界」にもそれぞれ段階があるが、僕はいま三十代半ばなので、その視点で言わせてもらうと、十代、二十代前半の時に感じる限界には、その先にある近い未来のイメージはぼんやりと出来る。それと同時に三十代半ば以降の遠い未来はほとんど見えない。僕がいま七十代、八十代をイメージ出来ないのと同じだ(死んでるかもしれないけど)。それは宇宙に果てがあるかどうかを考えるくらい現実感のない事なのだ。だから十代で絶望している暇などまったくない。これだ、と思った事を見つけて邁進すれば良い。もし仮に、そこになんらかの生産性がなくても、なにも見つけられないよりはずっとマシで、だから、十代後半から二十代前半の唯一の義務は、「やりたいことを探して見つける」ことだと思う。これって「誰でも大人はそういうけど、やりたい事をやろうとすると文句つけるよね」と思う人もたくさんいるし、自分も実際そう思っていた時期も合った。絶望によりかかるのはちょっと退廃的でかっこいいしね。でもこの時期に「やりたいことを見つける」ことの重要性は絶対に大事だと思う。大人はいつでもあなたたちのブレーキになるかもしれないけれど、それくらいの障害は、道路の小石みたいなものくらいに思っておけばいいのだ。

三十代後半からしてみれば、十代の絶望などはグリコのオマケに等しい。だから、若者が絶望し、未来を諦め、自ら命を捨てるなどもってのほかの行為なのだ。もちろん、十代の悩み、二十代の悩みはその時々でとても重い足かせを繋がれているみたいな気分になる時もある。そしてもし仮に、自殺するという行為がその人の美学だというのなら、それを否定する事はだれにも出来ないかもしれない。ただ、よく考えてほしい。「生きたくても生きられない命も、この世界にはあるのだという事」。このフレーズは時に年寄りの説教のように聞こえるかもしれない。でも世界はたとえ自分には無関係なことに見える事でも実は繋がっているのだ。バタフライエフェクトである。インターネットがその事を証明したように、ネットワークの存在は無限の宇宙だ。もちろん目の届く範囲のものを大事にすればいいし、他人の事に首を突っ込む事などは断じてないのだけど、言ってみるならばイメージを膨らませられるか、そこが重要なのだ。だからもしいじめに合って絶望してるなら、学校なんて行かなくてもいいし、家庭にトラブルを抱えているなら、がんばって家を出たっていい。パソコンやゲームに一日中かじりついてやってたって、好きな本を一日読んだり映画を見たり、楽器を弾いたりしたっていっこうにかまわない。この国は幸いにして未成年にはやさしい。少しくらいのトラブルなら大目に見てくれるのだ。でもどんなことも八方塞がりになっては終わりだ。ふと頭上の月を見るように、たまにまったく自分の世界と無関係だと思える事をイメージするんだ。だから何も気にしないで、というのは乱暴な言い方かもしれないけれど、自分のやるべき事、やりたい事、突き動かされる衝動、共感できる美学や哲学や死生観、そんなものをぼんやりと考え始めて、未来の自分を夢想すること。大切なのはいつだってイメージ。イメージは無限。考えてみれば「無限」は小学校の頃から「無敵」の象徴だろう?無敵を味方にまだ見ぬ明日を切り裂いてく戦士となれ!