9月22日、お彼岸の日に「義烈空挺隊玉砕之地」に参拝した時
お供えされていた、靖国神社の桜と懐中お守り
そして、ウィングがありました。
空挺バッチと
靖国神社の桜と懐中御札
有難うございました。
お供えされた、これらの供物は、空挺同志会沖縄支部で回収し、管理しております。
空挺バッチから、空挺団ゆかりの方が来られたかもしません。
有難うございました。
メッセージをいただければ幸いです。
今回の慰霊祭では、慰霊祭にご参加できないご遺族から慰霊祭に対して
メッセージをいただきました。
慰霊祭を主催する沖縄支部会員に勇気を与えてくれました。
義烈空挺隊井上洋曹長の御遺族からメッセージをいただき
義烈の碑前で披露する
令和六年度義烈空挺隊慰霊祭によせて
義烈空挺隊 中飛行場攻撃隊 井上曹長遺族
令和六年度義烈空挺隊慰霊祭を開催していただき、誠にありがとうございます。
義烈空挺隊隊員の皆様の御霊に哀悼の意を表しますとともに、慰霊祭の開催にご尽力をいただきました全日本空挺同志会沖縄支部に深く感謝申し上げます。またご参列いただきました皆様にも 心よりお礼申し上げます。
本来ならば 私も遺族の一人として その場に参列させていただくべきところでございますが、遠方でもあり、高齢の母と同居しております事情から 中々思うにまかせません。毎年失礼を重ねておりますこと、お詫び申し上げます。
本年はこのような形ではありますが、皆様とともに 義烈空挺隊を偲び、追悼させていただきたいと思います。
伯父井上洋は 27歳で亡くなりました。
やりたかったことも 色々あったと思いますし、無念の思いもあったかとは 思いますが、義烈空挺隊の誇りを胸に 出撃していったのではないかと 想像しております。
毎年この季節になりますと、伯父に恥じぬ 生き方ができているか、
伯父や義烈空挺隊の皆様が 後世に託した思いに応えられているか と我が身を振り返ります。毎年反省することばかりなのですが、今年こそはと 思いを新たにしております。
昨年、叔母である洋の妹が他界し、生前の伯父を知る親族は 皆 幽明境を異にすることとなりました。
この世は寂しくなりましたが、あの世で伯父は 家族がそろったことを喜んでいるのではないかと思います。
もう40年近く前のことになりますが、私は 伯父の戦友の皆様から 義烈空挺隊について 教えていただいたことがございます。
また父である洋の弟や 祖母や叔母たちから、伯父の思い出話も 聞いてきました。
伯父や義烈空挺隊を直接知る人たちから 話を聞いた世代の人間として、微力ながら、伯父や義烈空挺隊について語り継ぎ、私にできることを続けていきたいと思っております。
本日は誠にありがとうございました。
義烈空挺隊井上洋曹長
読谷村の「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑への献花式を終え
引き続き、6月1日11時より、摩文仁の丘にて義烈空挺隊慰霊祭を実施いたしました。
式典中、残念ながら雨が止むことはありませんでした。
摩文仁の丘の「義烈空挺隊慰霊塔」にて
慰霊祭が挙行された
桃原沖縄支部長による
祭文奏上
本日ここに、令和六年度 義烈空挺隊慰霊祭を挙行するにあたり、全日本空挺同志会 沖縄支部を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
昭和二十年四月一日、米軍は 陸・海・空統合部隊を編成し、大挙して嘉手納海岸に殺到、「ありったけの地獄を集めた」と言われた 沖縄戦が開始されました。沖縄を防衛する、第三十二軍は、上級部隊の作戦方針の迷走から、度重なる計画の変更を余儀なくされ、部隊の縮小、陣地の変更、現地訓練不十分なまま 強大な米軍を 迎え撃たねばなりませんでした。
大本営は、米軍に 沖縄周辺の制空・制海権を 奪取されていた為、部隊の増援や 武器・弾薬の補給など不可能であり、航空決戦のみに 勝機を見出していました。しかし、日本軍の航空作戦の要である 読谷、嘉手納飛行場を、早々に、米軍に占領され、日本軍の航空決戦構想は 根底から瓦解してしまいました。
上陸後、強力な火力と物量に勝る米軍は、日本軍を圧倒、首里司令部の保持も困難となった 沖縄戦の終盤、 大本営は、絶望的な戦局を挽回すべく、起死回生の特攻作戦、義号作戦を発令しました。 この作戦は、義烈空挺隊を 米軍に占領された読谷、嘉手納両飛行場に 強行着陸させ、飛行場を制圧し、米軍の迎撃能力を一時的に機能不全に陥らせる間、特攻機の突入を成功させるものであり、いわゆる特攻のための特攻でありました。
義烈空挺隊の攻撃は、それに遭遇した米兵を恐怖のどん底に陥れ、読谷飛行場は阿鼻叫喚の大混乱となりました。
米軍の戦闘記録では、 義烈空挺隊員が高い訓練度を誇り、応戦班と破壊班がしっかり役割分担して、実戦においても、冷静に実行していること、応戦班は伏射等で正確な射撃を行い、圧倒的多数のアメリカ海兵隊員に対して損害を与えて、破壊活動の支援の役割をしっかりこなしていること、破壊班も、破壊対象の航空機の大小をしっかり見極めて、訓練通りに爆薬や手榴弾を投擲したり設置したりし、状況に応じて爆薬を使い分けて、少人数で最大限の破壊を 実現できていることが 確認できると評価しています。
少人数で、これだけの大戦果が挙げられたのは、隊長である奥山大尉の卓越した統率と、徹底した訓練、周到な準備、空挺隊員としての矜恃と落下傘の絆、一人一人の任務達成への強固な意志、そして、日本陸軍下士官の戦闘員としての能力の高さによるものと考えます。
今日、帝国陸軍挺進部隊は消滅しましたが、いかなる困難も克服して任務を完遂すると言う「空挺魂」は、精鋭無比の第一空挺団に引き継がれ、挺進赴難の精神は、今、「空挺精神」として、この「義烈」の碑の前に参列する第一空挺団隊員、空挺予備員一人一人に、確りと、受け継がれております。
ロシアの侵攻から始まったウクライナ防衛戦は現在も続き、終結の目途もありません。日本は、ウクライナと同様に権威主義のロシアに隣接し、更に覇権主義の中国にも国境を接して、地政学上の危機は常にあり、日本を取り巻く環境は、戦争の世紀と言われた二十世紀当時と全く変わってはいないのです。
今日、戦争を経験した方々は殆どが鬼籍となり、戦争を経験され、その凄惨さを真に知る方はおられなくなりました。戦争を知らない我々は、新たな戦争の時代に入ったことを自覚し、覚悟をしなければなりません。しかし、沖縄県においては、県民を守る最低限の防衛力ですら、沖縄戦の凄惨な記憶から、受け入れることが出来ず、安全保障を理解していただけない人々もおられます。大変、残念なことです。
沖縄支部は、昭和四十八年に、当時の第一混成団の空挺予備員有志によって、読谷の地に「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑を建立し、慰霊・顕彰を目的として、支部を立ち上げました。そして、発足以来、五十有余年、義烈空挺隊の慰霊と顕彰を行なってまいりました。今後も、先人の熱い思いを受けつぎ、沖縄支部の「義烈空挺隊玉砕之地」の碑と、ここ摩文仁の丘の慰霊塔を守り、義烈空挺隊の末裔として、今後も慰霊・顕彰を続けて行くことをお誓い申し上げます。
義烈空挺隊の御霊よ、我々は決してあなた方を忘れません。安らかにお眠りください。
最後になりましたが、お忙しい中、義烈空挺隊山城准尉ご遺族 前田様 火箱空挺同志会会長、若松空挺団長と空挺団の方々をお迎えして、令和六年度の慰霊祭を、無事、挙行できましたことを心から御礼申し上げ、追悼の言葉といたします。
令和六年六月一日
全日本空挺同志会 沖縄支部 代表 桃 原 浩太郎
摩文仁の丘にある義烈空挺隊慰霊塔は12月23日に
沖縄支部有志によって、清掃を行いました。
前日の強風により、いつも慰霊碑周囲に溜まっているはずの落ち葉が吹き飛ばされていたので、
昨年に比べて、手間はあまりかかりませんでした。
慰霊碑の周りの落ち葉を掃く
落ち葉は、シートの上に集め、まとめて廃棄
昨年に比べて、落ち葉は少なかった。
展示ケースの清掃
ヤモリの避難所となっていました。
義烈の石碑に水をかけ、清掃する
気持は、大仏様のすす払い
清掃が終わり、正月用のお飾り
義烈空挺隊慰霊塔に礼
清掃参加者一同で、手を合わせ
義烈の御霊にこの1年間の無事を感謝するとともに
来年の支部の活動の成功をお祈りする
今回の慰霊碑清掃活動に参加した
沖縄支部会員たち
いつも、有難う!