雨が降ったら、儲けもの。
午前7時、大崎ゲートシティドトールのカウンターでは、
いつもの半分ほどのお客様しか座っていません。
雨はいつもと違って仕事のチャンス。
それは、過去、現在、未来を一望できる日です。
1989年の6月、美空ひばりがなくなった日、
横浜地方では大雨洪水警報が発令されていました。
当時、私は三越横浜店の販売員でした。
百貨店では10時の開店とともに、
お客様を持ち場に立ってお迎えします。
ヨハンシュトラウスの『美しき青きドナウ』のメロディーが流れるなか、
5分ほどの間「おはようございます。いらっしゃいませ」とあいさつするのが決まりでした。
私は5階の上りエスカレーター前に立っていましたが10分経っても、
1人のお客さまもいらっしゃいません。
「今日は大雨だし、開店休業かな」
そんなグレーな気持ちになったそのときでした。
「ちょいと、店員さん」
振り返ると、藍色の紬の着物に、
昔ながらのレインコート、手には番傘を持った、
50歳くらいのご婦人が立っていました。
「朝からそんな辛気臭い顔しないで、私の買い物手伝っとくれよ」
埼玉県行田市の足袋屋さんの紳士靴下30足のまとめ買いでした。
進物用に1足ずつ箱詰にするというご用命でした。
お届け先は桜木町駅近く、野毛の料理屋さんでした。
ご来店されたこのご婦人は、その店の女将だったのです。
「あたしがなんでこの靴下選ぶかわかるかい?」
「湿気のある季節には、この風合いなんだよ」
色は紺無地、見た目は有名ブランドの品物と変わりませんが、吸湿性のある紳士靴下でした。
「お嬢(美空ひばり)が桜木町の国際劇場に出たころから、三越なんだよね」
横浜三越が開店したのは1973年。それ以前は、この品物を買いに日本橋の三越に行っていたそうです。
その日ご来店いただいた数少ないお客さまの1人でした。
このお客さまはその後、私をご指名されるようになりました。
このできごとのあった12年後、私は三越で4年連続MVPをいただきました。
引退した今でも雨が降った日は、あのご婦人を思い出すのです。