何を隠そう、僕は厨二病でした。もしかしたら進行形かもしれません。

根っこは感情的な人間なのに、いつからか合理主義者になろうとしちゃったわけです。なんと恥ずかしいことか、合理的に考えて決断する自分が達観してるのだと勘違いしていた時期がありました。これは人付き合いにも影響しまして、合わない人間は切っていってたのです。恥ずかしながらプライドが高かったんですね。

自身と慢心は別物と唱えてはいましたが、慢心の多い人間でした。自信は持っても慢心はするな、これはでかお流指導論にはあったのですが自分自身が慢心していたのです。こと人付き合いにおいては感情が優先されるものだと言うのに。


「私たちの中に光があるように、ほかの人にも光があります。さらにいえば、許せないと思う人にも光はある。」若松英輔(2020:86)


光を正義や主張と言い換えると想像しやすいかもしれません。きっとみんな自分や自分の仲間を守りたいんですよね。

僕は仲間にはもちろん献身的に、仲間じゃなくても献身的に。これらを意識的にしようとしていました。ただ、なんとなくで敵認定した相手には徹底的に厳しかったと思います。思慮が足りなかった。机上の利益的な損得や感情的な損得に囚われていたと思います。

合わない人にも光があって、広く見れば皆仲間であると。そう思って生きていこうと考えてます。合わない言動を見たとしても、今の自分に立ち返れるように唱えていきたいものです。

嗚呼、過去の自分は輝いていた。自惚れも良いところですが、感情と論理を使い分けていた記憶があります。論理的に磨いた自分で、感情的に人に手を差し伸べることができていた。戻りたいし、当時より良くなりたい。そう思います。星の子として生まれる前の話です。


とまあセンチなことをツラツラと並べたけど、スーザンボイルの言葉を借りれば「それは私のほんの一面だわ!」と。丁寧さは柄じゃない。御託ばっかもめんどくさい。勉強でもスポーツでもskyでも、行き詰まったら頼りに来ればいい。仲間が困ってるなら仲間のために僕も変化を重ねて道を指し示せるようになるから、黙ってついてこい!てめえら皆仲間なんだから。


それではまた。


参考文献

悲しみとともにどう生きるか,柳田邦夫・若松英輔・星野智幸・東畑開人・平野啓一郎・島薗進・入江杏,集英社新書,86p