続・火防陶器神社(ひぶせとうきじんじゃ) -第15回ブログ- | 消防設備や防火対象物の点検ならテクニコ株式会社(大阪・東京)

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謎の参道を経て 辿り着いた火防陶器神社(ひぶせとうきじんじゃ)は、なんと何度か行った事のある坐摩神社(いかすりじんじゃ)の裏側であった。
入口に坐摩神社の石碑があるということは、おそらく坐摩神社と繋がっているのだろうか?


鳥居の正面すぐに赤い社がある。
(後で調べた事:龍丸稲荷大明神(たつまるいなりだいみょうじん?)・黒龍稲荷大明神稲荷神社(こくりゅういなりだいみょうじん?)が祀られている稲荷神社というらしい。)
 


なにやら左隣にも社らしきものがあり
、さらに奥にも道が続いている気配がする。
何はともあれとりあえず鳥居前でお辞儀をかまして入ってみた。

鳥居をくぐると、すぐ左手に
手水舎(参拝者が身を清める為の水がある場所)が有り、その淵に陶磁器の蛙の置物がある。



陶器神社の名前通りのご挨拶、といった感じで嬉しい。背後の灯篭もかなりいい感じである。

そして左手に進むと、陶器神社の拝殿とご対面。



火防陶器神社と書かれた額も陶器で作られており、脇にある2つの灯篭も陶器製だ。



青絵の染付がゴージャスである。清水焼だそうだ。

拝殿の側面には奉納されたお皿が飾られており、今現在も毎年ここで開催されている「せともの祭り」の由来が書かれている。

(※以前、祭りが行われている時にも坐摩神社に来た事があったが、今思えばあれが「せともの祭り」だったのだ。 )

 


想像していた以上に"陶器神社らしさ"のある拝殿を見て、ここまでの道のりが報われる気持ちだ。
(※境内の中には載せている写真以外にも多数の陶磁器の灯篭や壺、鉢などが有り、陶器神社の由緒のようなものを感じる事ができた。)

拝殿の左手を見ると、これまた陶磁器製の灯篭に挟まれ、道が続いている。



ここまで来ると境内の全体像が見えてきた。



奥の大きなビルは旧伊藤忠商事大阪本社だ。
坐摩神社入口の鳥居も見える。
陶器神社の参道と同様に、ここも近辺の人々の通り道になっているようだ。
何故今まで、この道を見逃していたのだろうか。



道を抜けると見憶えのあるだだっ広い境内。
前に来た時にも印象的だった入口の三輪鳥居(1つの明神鳥居の両脇に小規模な2つの鳥居を組み合わせたもの by wikipedia )。
そして左を見ると
坐摩神社拝殿の御横顔である。



拝殿正面。



坐摩神社
の境内も見所が色々あるが、今回は火防陶器神社が目的なので割愛(というか時間がなかった)。
そしてせっかくなので私も坐摩神社を抜けて行くことにする。



全国でも三輪鳥居はなかなか珍しいそうだ。
実はこの場所にはちょっとした思い入れがあり、こうやって正面から眺めると色々な思いがよぎる。
火防陶器神社の看板を見つけた事で、予期せぬ参拝となった。

今度来るのはいつになるだろうか。



※オマケ
陶器神社から坐摩神社の境にこんな碑があり「へぇ〜」だったので、一部分を文章に起こしました。
(火防も陶器も関係無し)

【中興の祖 初代桂文治】
初代桂文治は寛政年間(1789〜1800)坐摩神社境内に大阪ではじめて寄席を建て、抜群の話芸で名人と称され上方落語繁栄の基礎を築いた。

それまでは大道芸に近い芸能だった落語を室内の高座で演ずる現在につながる興行形式にあらためたのである。
ために文治は上方落語の中興と仰がれている。

文治の名跡は三代目以降が江戸に移ったが、七代目文治の名が一旦大阪に戻り、初代文治を祖とする桂派の流れは大阪と江戸の両地で大きな勢力となって東西落語界の興隆を支えて今日に至っている。

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