1階は工場、2階が会社更衣室および自宅、3階が屋上のベランダという環境で育ちました。家に風呂は無く、銭湯通いでした。2階の自宅に出入りするためには、1階の重い工場鉄扉(引戸)を開閉する必要があり、小学生の私には全力で押し引きする筋トレになっていましたあせる
 
1983年(昭和58年) 東京都目黒区の工場兼自宅前にて〉
 
父がタイプライターでNC旋盤のプログラムを穿孔テープに打ち込み、従業員がオペレーター作業をし、祖父が普通旋盤を回していました。会社前の道は一方通行で狭く、トラックへの製品の積込みは、後ろから大きな車が来る前までに行わなければなりませんでした。
 
私は無口でコミュニケーションが苦手でしたが、理科と工作は得意でした。その当時は、まだ都心でも建物の高層化が進んでおらず、夜に3階に登り東京タワーを見ることが出来ましたおねがい