早いものです。もう5年も経つなんて・・
今日は少し長い記事です。
私は当日震源から遠く離れた場所でいつものように
仕事をしていましたが、大海原に浮かぶ船のように大地が大きく揺れ、軋む建物に恐怖を感じ外に出ました。
手元にあった携帯でTVを見ていると震源が東北だと
言う事を知り驚き、そして信じられない光景を見ました。
その後、当時危機管理の部門を担当していたこともあり
すぐに対策室を設置しネット会議で全国の事務所と繋ぎながら
被災した事務所やその家族の状況の安否を確認しました。
その後交代で車で物資を運ぶ調達や経路を検討したり
実際に買い出しに走ったり、被災した事務所の代わりになるよう
近隣地域にも応援を頼みながら
約1ヶ月強、毎日朝から夜遅くまで対策室に詰めていました。
その間も付けっ放しのTVから心理的に恐怖を感じる警報が
何度も流れ、その度に現地と連絡を取りました。
10日程で電気が復旧し何とか別の事務所を借りネット会議
ができたので、元気な姿も見れリアルな状況を聞きながら
全国にいる事務所のみんなで、どうしたら物資や支援を届け
られるかを考え、協力ができたからこそだと思います。
1ヶ月でライフラインは復旧したものの、まだまだ道半ば
の状況でした。また、業務よりも働く人の安全が第一で
本人や自宅や家族への支援が何よりも優先でした。
その頃ずっと夜布団に入っても眠れない日々が続きました。
当時私はいてもたってもいられず、現地に支援に行きたいと
申し出ましたが、当時の社長に対策室を管理しなければ状況
が分からず皆が動くことができないとを言われ、片づけすら
手伝えない自分が情けなく、悔しい申し訳ない気持ちでした。
この頃既に症状が出ていた私は、この対策室を閉じた数日後に
ドクターストップで突然の休職を余儀なくされました。
それから半年後、復帰をしても時折もたげる症状に翌年以降は
無事に1年を迎えられるだろうかという恐怖と、自分と戦い
ながら仕事をし、僅かな兆しを心の支えにここまで来ました。
離れた場所の事ですが、震災には特別の思いがあります。
あの時、全員が最善で精一杯の事をしたのだと思うし
それぞれの立場でできる事をするしかありませんでしたが
やはりもっとできた事があったのではという後悔もあります。
また、1ヶ月も追い詰められた状況におかれると人は心の余裕なく
本性も出てきます。醜い行動をとる人や、勇気付けられる
約1ヶ月強、毎日朝から夜遅くまで対策室に詰めていました。
その間も付けっ放しのTVから心理的に恐怖を感じる警報が
何度も流れ、その度に現地と連絡を取りました。
10日程で電気が復旧し何とか別の事務所を借りネット会議
ができたので、元気な姿も見れリアルな状況を聞きながら
全国にいる事務所のみんなで、どうしたら物資や支援を届け
られるかを考え、協力ができたからこそだと思います。
1ヶ月でライフラインは復旧したものの、まだまだ道半ば
の状況でした。また、業務よりも働く人の安全が第一で
本人や自宅や家族への支援が何よりも優先でした。
その頃ずっと夜布団に入っても眠れない日々が続きました。
当時私はいてもたってもいられず、現地に支援に行きたいと
申し出ましたが、当時の社長に対策室を管理しなければ状況
が分からず皆が動くことができないとを言われ、片づけすら
手伝えない自分が情けなく、悔しい申し訳ない気持ちでした。
この頃既に症状が出ていた私は、この対策室を閉じた数日後に
ドクターストップで突然の休職を余儀なくされました。
それから半年後、復帰をしても時折もたげる症状に翌年以降は
無事に1年を迎えられるだろうかという恐怖と、自分と戦い
ながら仕事をし、僅かな兆しを心の支えにここまで来ました。
離れた場所の事ですが、震災には特別の思いがあります。
あの時、全員が最善で精一杯の事をしたのだと思うし
それぞれの立場でできる事をするしかありませんでしたが
やはりもっとできた事があったのではという後悔もあります。
また、1ヶ月も追い詰められた状況におかれると人は心の余裕なく
本性も出てきます。醜い行動をとる人や、勇気付けられる
勇敢な方など
人間模様も自分にとっては今では貴重な経験になりました。
それから5年。私も同じ時期から自分自身の心の回復をしてきましたが
決して楽ではありませんでした。見た目は普通でも、まだ時々
症状が出てきます。一生うまく付き合うしかありません。
それでも、周りから見ればほぼ分からなくなったと思います。
ただ、あの日から自分の中では人間は五体満足でなければ
心と体が思うようにならない事を知り、考え方や生き方を
変えるきっかけにもなった大きな転換期になりました。
過去からの無理も祟ったのかもしれませんが、まだ若い?
うちに自分の限界を教えてもらったから、またこうして
働く事ができているのだと思います。
復職後、震災から丁度1年経った頃に体調的にも遠方の出張許可が
降りて漸く現地調査をする機会ができました。事務所の方は
みなさん明るく当時の大変さと、今元気で仕事ができる事を
その後私は限りある時間、電車で仙台から海岸線を北上
できるところまで行き、途中下車をしながら調査を行いました。
当時映像でしか見れなかった場所を自分の目で見て、そこで
暮らす人たちの様子も知っておく事。場所により既に新しい
住宅が立ち並ぶ場所や、手付かずの場所も沢山ありました。
そして、最後に事務所の人に空港へ送っていただける事になり
途中電車では行けない場所を車で案内してくれました。
それは、あの大津波が全てをさらっていった仙台市の海岸沿い
でした。海風に吹かれ土埃が舞うだけの地面に新しい花が
対岸から数キロ奥までは辛うじて区画が分かるだけで何もなく
草がわずかに生えているだけでした。ところどころに津波に
知る事、見ることはとても大切だと思います。
また、仕事でも、
人間模様も自分にとっては今では貴重な経験になりました。
それから5年。私も同じ時期から自分自身の心の回復をしてきましたが
決して楽ではありませんでした。見た目は普通でも、まだ時々
症状が出てきます。一生うまく付き合うしかありません。
それでも、周りから見ればほぼ分からなくなったと思います。
ただ、あの日から自分の中では人間は五体満足でなければ
心と体が思うようにならない事を知り、考え方や生き方を
変えるきっかけにもなった大きな転換期になりました。
過去からの無理も祟ったのかもしれませんが、まだ若い?
うちに自分の限界を教えてもらったから、またこうして
働く事ができているのだと思います。
復職後、震災から丁度1年経った頃に体調的にも遠方の出張許可が
降りて漸く現地調査をする機会ができました。事務所の方は
みなさん明るく当時の大変さと、今元気で仕事ができる事を
笑顔で話しておられました。事務所近くの公園は白いプレハブの
仮設住宅地になっていました。
その後私は限りある時間、電車で仙台から海岸線を北上
できるところまで行き、途中下車をしながら調査を行いました。
当時映像でしか見れなかった場所を自分の目で見て、そこで
暮らす人たちの様子も知っておく事。場所により既に新しい
住宅が立ち並ぶ場所や、手付かずの場所も沢山ありました。
そして、最後に事務所の人に空港へ送っていただける事になり
途中電車では行けない場所を車で案内してくれました。
それは、あの大津波が全てをさらっていった仙台市の海岸沿い
でした。海風に吹かれ土埃が舞うだけの地面に新しい花が
手向けられている場所に降り立ち、津波の恐ろしさを感じました。
対岸から数キロ奥までは辛うじて区画が分かるだけで何もなく
草がわずかに生えているだけでした。ところどころに津波に
あった状態のまま手付かずの家も残されており、窓は割れ、
カーテンがはずれかかっているだけの新しい家もありました。
非難して助かるはずの避難場所も骨組みしか残っていませんでした。
遠くを見ると、重機が残った瓦礫を集めていました。
土ぼこりで遠く霞み瓦礫は海水で錆びた塊になっています。
ここには誰ももう住まないだろうと話してくれました。
しばらく海岸沿いを走り運転しながら色々と話をしました。
非難して助かるはずの避難場所も骨組みしか残っていませんでした。
遠くを見ると、重機が残った瓦礫を集めていました。
土ぼこりで遠く霞み瓦礫は海水で錆びた塊になっています。
ここには誰ももう住まないだろうと話してくれました。
しばらく海岸沿いを走り運転しながら色々と話をしました。
実家は気仙沼で大規模火災に巻き込まれたそうです。
幸い非難をして無事でしたが、家が無くなってしまったこと、
両親や家族は無事だが、親族や友人が亡くなっている事・・
幸い非難をして無事でしたが、家が無くなってしまったこと、
両親や家族は無事だが、親族や友人が亡くなっている事・・
亡くなった被災者を狙う人とは思えない卑劣な強奪の話に
私は言葉を失いました。
その方も当時は仕事場に足止めされ、交通事情もあり自宅に
その方も当時は仕事場に足止めされ、交通事情もあり自宅に
帰る事ができず、家族や両親を案じながら泊り込みで
復旧活動をしておられましたが、その使命感がかえって
心の支えとなり当時立っていられたそうです。
一つづつ噛み締めるように話す言葉を、私はただ聞いている
しかできませんでした。そして最後にまた来て欲しいと笑顔で
言われました。事務所の皆さんも同様の事をおっしゃられて
いたのがとても印象的でした。
震災前の美しい杜の都と被災した後の一部戻りつつある街や
一つづつ噛み締めるように話す言葉を、私はただ聞いている
しかできませんでした。そして最後にまた来て欲しいと笑顔で
言われました。事務所の皆さんも同様の事をおっしゃられて
いたのがとても印象的でした。
震災前の美しい杜の都と被災した後の一部戻りつつある街や
復興がまだかかるであろう場所を両方見ています。
知る事、見ることはとても大切だと思います。
また、仕事でも、
個人としても18切符で旅をしたりしながら、日々前に歩いている
東北をこれからも見届けて行こうと思います。
行ったからといって十分役に立てないし、何も知れていないかもしれない。
東北をこれからも見届けて行こうと思います。
行ったからといって十分役に立てないし、何も知れていないかもしれない。
けれど、この事を心に刻みながら毎日を生きる事は大切なのだと思います。
私自身も病気とは今も共存しています。でも諦めていません。
そして毎日を丁寧に生ききることを、これからも忘れないで
私自身も病気とは今も共存しています。でも諦めていません。
そして毎日を丁寧に生ききることを、これからも忘れないで
いこうと思います。