先日友人とデビットボウイについて話をしていたところ
「死後すぐに火葬された」との事で驚きました。
土葬と言うイメージがあったのに、またあれだけの
スターであれば冷凍保存という選択肢もあっただろうに
と少し疑念を抱いたのですが・・。
もしかしたら闘病生活でやつれ果てた姿を皆の前には
さらけ出したくなかったのだろうか・・
この世に思いを残したくなかったのかもしれない。
なんだかそんなことを考えていると、ふと祖父のことを
思い出しました。
--------------------------------------------------
初めて葬儀に立ち会ったのは祖父の時、土葬での埋葬だった。
祖父が亡くなったのは私がまだ学生の頃。父親代わりに
お世話になったのに何も恩返しすることもできず、悲報を
聞いた時は絶句するしかなかった。
亡くなる一週間ほど前から頭がいたいといっていたそうで
「風邪かな」と思う程度。定年後公民館の宿直を交代で
行っていたが、その宿直の日誰も居ない場所で柱にしがみ
ついていたであろう状態でなくなっていた。
脳出血だった。相当痛いと聞いていたので恐らくその傷みに
絶えながらだったのだろうと思う。
結局家族は誰も死に目に会えず、私も学校からその日の晩
慌てて帰ると、仏間に立て膝をして白い布をかぶされ
横になっている顔を見てもにわかに信じられなかった。
傷一つなく、穏やかな寝顔と言う印象だった。
その後、葬儀の時まで交代で寝ずにお線香の番をしていた。
地区の風習で、なくなった家族は台所に立ってはいけない
そうで、近所の女性たちが食事などの世話をしていた。
私達はただ、祖父のそばで見守るしかなかった。
葬儀の日、祖父は木の丸い御棺に入れられていた。
立てひざをしていたのは、この丸い形に体育座りで入れる
ようにということだったらしい。
色とりどりの花を入れられ、綺麗に化粧をされた祖父は
そこでも眠っているようにしか見えなかった。
つまり何の前触れもなく亡くなり、私も祖父が亡くなった
実感がないという事なのだが、なぜか涙が止まらなかった。
いよいよ葬儀が始まり、土葬のために山の上のお墓に全員で
行くことになった。籠を担ぐように親族の若者が持ち、その
あとを全員が1列で付いていく。
少し脱線するが、叔母の婚礼の時も同じく家から出た花嫁は
祖父に連れられ白無垢姿で親族が1列で歩いて大きな道まで
行った記憶がある。恐らくこの土地の風習なのだと思う。
いずれも静かに、青々とした緑に囲まれた道の中を厳かに
歩いていく光景は、どちらも遠くから見ると美しく見えて
いたのではないかと今思う。それを受け入れる気持ちが
とても伝わるということもあるのかもしれない。
葬儀では獣道のような細い通を上がっていくと、お彼岸などに
お参りしている見慣れたお墓がある場所に到着した。
広さは家の敷地ほどあり、家の過去帳に記載されているであろう
墓石と思わしきものが点在している。(300回忌だのもういつの
ものだか分からないご先祖の供養を毎年していた)
その中ほどに、深い穴があけられ丸い座棺を納めると
喪主である祖母が祖父の使っていた茶碗と箸を派手に音を立てる
ように投げ入れた。その後も子供から私達孫まで祖父の
使っていたものを次々投げ入れると、最後に土を山にして
埋めた。
その光景が今も頭から離れない。
恐らく、気持ちの区切りをつけるためのもののように思う。
その後、木の棺で眠っている祖父はお墓参りに行くたびに
少しづつ山の形が変わっていき、7回忌ごろには祖父と棺が
朽ちて山がなくなっていました。その後、墓石を立てるのが
通例だそうだ。
ただ、最終的にはこの地区でも土葬が禁止となった為、13回忌の
際にあの場所にある全ての骨を拾い集め、自宅近くに寄せ墓として
祖父とご先祖様の2つの墓石を立てた。
祖父が亡くなったことを受け入れるのに恐らく10年位かかったの
だと思う。土葬の場合はここにあの時見た祖父がそのままでいる
という物質的なものがあるという気持ちがあり、長い間をかけ
朽ち果てる頃に残された人たちも受け入れられたように思う。
「死に目に会う」というのは故人のためではなく、自分たちの
為なのであり、お葬式も気持ちの区切りを残された人がするために
あるように感じた。
その後、幾人かの死に立会い葬儀にも列席したこともあるが
最近の火葬はまだ私には受け入れがたい。
闘病の末亡くなられた方の葬儀が最初の火葬の立会いだったが
広い敷地で、役所の書類の待合のように番号で呼ばれる。
システム的に焼かれて出てくる骨だけの状態の遺体があり
同じように幾人もの方が並んで置かれ、骨を拾った後が奥まで
何体も並んでおり、知らない人の死まで立ち会うことになって
しまうこの光景に非常にショックを受けた。
遺骨を拾う際、全身の骨の一部を満遍なく拾うのだが、
初めて喉仏というものを見た。
亡くなられる直前まで、歯医者に行ききちんと治療をしていた
丈夫な犬歯も拾った。
残った骨はどうなるのだろうか。全て持ち帰ることは
できないのだろうか。死後、簡単に骨となってしまう人の体を
目の当たりにして、これも決別の気持ちであろうかと苦悩した。
亡くなられたことを受け入れるのにも祖父ほどの長い時間は
かからなかったが、何か悔しいという気持ちは残っている。
こうしてきちんと死に向き合い、その後生きていく私達は
その後の生き方に大きな影響を持つ。
私達は、生まれた瞬間から死に向かっている。
その「死」が特異点で近い将来なくなってしまうとしたら私達の
生きるという意味の概念は大きく変わる。
どのように変わるのかは計り知れないものがあるが
日々、色々な出来事に向き合っていく事がやはり大切なこと
ではないかと思うのです。
「死後すぐに火葬された」との事で驚きました。
土葬と言うイメージがあったのに、またあれだけの
スターであれば冷凍保存という選択肢もあっただろうに
と少し疑念を抱いたのですが・・。
もしかしたら闘病生活でやつれ果てた姿を皆の前には
さらけ出したくなかったのだろうか・・
この世に思いを残したくなかったのかもしれない。
なんだかそんなことを考えていると、ふと祖父のことを
思い出しました。
--------------------------------------------------
初めて葬儀に立ち会ったのは祖父の時、土葬での埋葬だった。
祖父が亡くなったのは私がまだ学生の頃。父親代わりに
お世話になったのに何も恩返しすることもできず、悲報を
聞いた時は絶句するしかなかった。
亡くなる一週間ほど前から頭がいたいといっていたそうで
「風邪かな」と思う程度。定年後公民館の宿直を交代で
行っていたが、その宿直の日誰も居ない場所で柱にしがみ
ついていたであろう状態でなくなっていた。
脳出血だった。相当痛いと聞いていたので恐らくその傷みに
絶えながらだったのだろうと思う。
結局家族は誰も死に目に会えず、私も学校からその日の晩
慌てて帰ると、仏間に立て膝をして白い布をかぶされ
横になっている顔を見てもにわかに信じられなかった。
傷一つなく、穏やかな寝顔と言う印象だった。
その後、葬儀の時まで交代で寝ずにお線香の番をしていた。
地区の風習で、なくなった家族は台所に立ってはいけない
そうで、近所の女性たちが食事などの世話をしていた。
私達はただ、祖父のそばで見守るしかなかった。
葬儀の日、祖父は木の丸い御棺に入れられていた。
立てひざをしていたのは、この丸い形に体育座りで入れる
ようにということだったらしい。
色とりどりの花を入れられ、綺麗に化粧をされた祖父は
そこでも眠っているようにしか見えなかった。
つまり何の前触れもなく亡くなり、私も祖父が亡くなった
実感がないという事なのだが、なぜか涙が止まらなかった。
いよいよ葬儀が始まり、土葬のために山の上のお墓に全員で
行くことになった。籠を担ぐように親族の若者が持ち、その
あとを全員が1列で付いていく。
少し脱線するが、叔母の婚礼の時も同じく家から出た花嫁は
祖父に連れられ白無垢姿で親族が1列で歩いて大きな道まで
行った記憶がある。恐らくこの土地の風習なのだと思う。
いずれも静かに、青々とした緑に囲まれた道の中を厳かに
歩いていく光景は、どちらも遠くから見ると美しく見えて
いたのではないかと今思う。それを受け入れる気持ちが
とても伝わるということもあるのかもしれない。
葬儀では獣道のような細い通を上がっていくと、お彼岸などに
お参りしている見慣れたお墓がある場所に到着した。
広さは家の敷地ほどあり、家の過去帳に記載されているであろう
墓石と思わしきものが点在している。(300回忌だのもういつの
ものだか分からないご先祖の供養を毎年していた)
その中ほどに、深い穴があけられ丸い座棺を納めると
喪主である祖母が祖父の使っていた茶碗と箸を派手に音を立てる
ように投げ入れた。その後も子供から私達孫まで祖父の
使っていたものを次々投げ入れると、最後に土を山にして
埋めた。
その光景が今も頭から離れない。
恐らく、気持ちの区切りをつけるためのもののように思う。
その後、木の棺で眠っている祖父はお墓参りに行くたびに
少しづつ山の形が変わっていき、7回忌ごろには祖父と棺が
朽ちて山がなくなっていました。その後、墓石を立てるのが
通例だそうだ。
ただ、最終的にはこの地区でも土葬が禁止となった為、13回忌の
際にあの場所にある全ての骨を拾い集め、自宅近くに寄せ墓として
祖父とご先祖様の2つの墓石を立てた。
祖父が亡くなったことを受け入れるのに恐らく10年位かかったの
だと思う。土葬の場合はここにあの時見た祖父がそのままでいる
という物質的なものがあるという気持ちがあり、長い間をかけ
朽ち果てる頃に残された人たちも受け入れられたように思う。
「死に目に会う」というのは故人のためではなく、自分たちの
為なのであり、お葬式も気持ちの区切りを残された人がするために
あるように感じた。
その後、幾人かの死に立会い葬儀にも列席したこともあるが
最近の火葬はまだ私には受け入れがたい。
闘病の末亡くなられた方の葬儀が最初の火葬の立会いだったが
広い敷地で、役所の書類の待合のように番号で呼ばれる。
システム的に焼かれて出てくる骨だけの状態の遺体があり
同じように幾人もの方が並んで置かれ、骨を拾った後が奥まで
何体も並んでおり、知らない人の死まで立ち会うことになって
しまうこの光景に非常にショックを受けた。
遺骨を拾う際、全身の骨の一部を満遍なく拾うのだが、
初めて喉仏というものを見た。
亡くなられる直前まで、歯医者に行ききちんと治療をしていた
丈夫な犬歯も拾った。
残った骨はどうなるのだろうか。全て持ち帰ることは
できないのだろうか。死後、簡単に骨となってしまう人の体を
目の当たりにして、これも決別の気持ちであろうかと苦悩した。
亡くなられたことを受け入れるのにも祖父ほどの長い時間は
かからなかったが、何か悔しいという気持ちは残っている。
こうしてきちんと死に向き合い、その後生きていく私達は
その後の生き方に大きな影響を持つ。
私達は、生まれた瞬間から死に向かっている。
その「死」が特異点で近い将来なくなってしまうとしたら私達の
生きるという意味の概念は大きく変わる。
どのように変わるのかは計り知れないものがあるが
日々、色々な出来事に向き合っていく事がやはり大切なこと
ではないかと思うのです。