先日「しあわせの基準」で的川教授のお話に少し触れましたが
沢山のお話の中からタイトルのテーマでのお話をしたいと思います。

的川教授は、かつて「糸川教授」の弟子としてロケット開発に
携わっておられ、今は最後の生弟子となっています。糸川教授を
「親分」と呼んでおられ、その破天荒?なエピソードを交え
ながら、ひととなりのお話はとても感動的でした。

糸川教授のプロフィールと、的川教授が体験したエピソードを
少しご紹介します^^
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▼糸川 英夫(1912~1999没)
専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットの開発者であり
「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。
元々、飛行機のエンジニアであり、技術者視点での革新的な
ロケット開発を行った人でもあります。
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糸川教授のエピソード
◆趣味趣向(多趣味、するならとことん)
・60歳になってからバレエを始めて1年後には舞台に立った。
 整理券を弟子たちに配り、券に通しナンバーがついているから
 来ないとわかるよ!と脅されたが的川さんは行かなかった。
 (白タイツ姿は見たくないからだそう(笑)

・音楽も好きで楽器も愛用。チェロを持っていたが首に挟むのが嫌で
 海外にももって行きやすいように自ら四角いチェロを考え作った。

◆行動傾向(日本でロケットを打ち上げるために情熱をかけた)
・この頃世界のロケット発射場は砂漠などの平地で行われていた。
 日本ではその様な広大な土地がなく場所の選定に時間がかかっていた。

 戦後GHQの協定で太平洋側に打ち上げるのは禁止とされていて、
 北から段々と南下しなから規制にかからない場所を探して転々とし、
 最後に種子島の山の中にたどり着いた。
(山の上の発射台は世界初、その他世界初を沢山実行された方でもある)

・種子島でのロケット打ち上げ場所を探している際も、タクシー運転手が
 悪路が嫌で行きたくないと断ると、普通は諦めるものだが「お前が
 行かないなら俺が運転するから道案内をしろ」とハンドルを奪う。

・ロケットを観測するレーダーの製作が1年位かかるから間に合わない
 という話でも、「上に上げれないんだったらそれまで横に飛ばしたら
 その間観測はできるだろう」と発射テストを実行した。
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とにかくしたいと思ったら絶対に実行をする人だったそうです。
ともすれば、強引と思うかもしれないですが、的川さんのお話を聞くと
そうは思いませんでした。

懐かしい思い出を振り返るように笑顔で話す様子を見ると、
誰もやっていないことを実行する難しさを、まるで楽しむかのように
やってのける糸川教授は弟子は振り回され大変だった様子ながら
その分だけ沢山のことを学ばれたんだなと思います^^

★的川さんは糸川教授について最後にこんな風におっしゃられていました。
 ”やりたいと思ったら、決して諦めることをしない。絶対にできないと
 言われる事も「どうすればできるのか」を必ず考える人だった。”

私も仕事でとある方(今は亡くなっておられますが)と出会い、
その方に沢山のことを教えられました。

・失敗か成功かの分かれ目は、自分が諦めるかどうかにある
・給料は期待値、今の3倍働いてやっと実力になる。甘んじてはいけない。

この言葉だけではわかりにくいこともありますが、数々の教えを
たたきこまれ、私も基本的には前向きに日々を生きています。

気持ちの上下は日々あれど、諦めなければ大丈夫という思いを忘れず
進んでゆけば必ず良い結果になります。それをつかもうとするか
どうかは、受身ではなくやはり自分次第なのだと、的川さんのお話から
改めて考えさせられました。

そうは言っても自分には無理。と思う方もいらっしゃるでしょうが、
未知の扉を自分で開くことは本当に大切です。
諦めればそこで終わりです。何年、何十年かかっても諦めない
それが一番の大切なことなのだと^^