最初にお断りしておきますが私は無宗教です。特定の政党政治や
新興宗教の話には関わりませんのであしからず^^
今日は時代をさかのぼり、祖父母といた頃の話を。
私は丁度人間形成をされる年齢の頃に祖父母の家で暮らして
いました。ハイジのおじいさん家のような(標高は高くないけど)
大自然の中で、自然の摂理に沿って生活をしている環境でした。
祖母は、誰に言われるでもなく、過去姑さんから受けついだ慣習も
生活の一部に溶込み様々な知恵を使い自然と共に暮らしていました。
昭和の家電界の三種の神器と言えばテレビ・洗濯機・冷蔵庫?
私の頃にはもちろんカラーテレビですし、家電も多くありましたが
それ以外のものは、大正時代の建屋を移築した当時のままで
台所はおくどさん、お風呂は薪風呂、海産物以外の殆どの食料は
自宅もしくは所有の山で作られたり採れたものでした。
しかも当時色々なものを食べ、作る工程も毎回手伝わされて
いましたが、田植えや畑や山菜採りに借り出されるのはもちろん、
裏庭にある茶畑の茶摘、お茶を蒸しもまされたり、裏庭で育てた
蕎麦は乾燥させ石臼で引いてふるいをかけさせられ、こんにゃくも
麹も作っていた記憶があるので、とにかく食料は全てダッシュ村の
ように1から作り育て、加工していたのだと思います。
近所では、そこまでする家はあまりなかったように思うので、
単なる祖父母の趣味なのか、昔のスタイルを貫いていたのか・・。
(私が生まれる前は牛もいて、養蚕もしていたそうです。)
肉類も同様で、庭で育てた鶏がいて、冬は猟をし今で言うジビエ
もあり、今思えば「食材」を作る工程を知りながら食していたので
本当の贅沢、旬の美味しいものを知っているのかもしれません。
新鮮で旬のものは手を加えなくても十分美味しいのです。
で、そんな毎日の家を守る祖母の慣習的行動には今思い返しても
頭が下がります。体調の悪い時もあっただろうに行事や家仕事を
休んだところは一度も見た事がありませんでした。
二十四節気毎の行事を全て行い、祝日に日本国旗を玄関に立てる。
食事は人工的なものは一切使わなかった為、だしも一からとり、
出涸らしも活用して、残りは肥料に。生ゴミもありません。
真冬は、もみを取り終わり乾燥させたワラが縁側の隅に大量に
積まれており、ストーブを背にして縁側で一握りのワラを二股に
して撚りをかけ、先端を縛ると1本の太いものをもくもくと作る。
(この状態のものは来年刈り取った稲を縛るモノになります)
この長さで縛り、ハデ掛け天日干しをした米は抜群に美味しくなる。
短い長さのものを端同士を重ねて更に撚ることで長くて
丈夫な縄になる。お正月はこの方法を応用し、家に飾るしめなわを
見よう見まねで作ったりもしたが、これが案外子供には難しい。
長い冬を越えるために、秋に収穫した実りは長期保存ができるよう
切って乾燥させたり、漬けたり、麹に混ぜたりと案外冬も家仕事は
忙しいのだ。いつの時でも縁側は大活躍する。
子供の頃の私にとっては、お手伝いは「遊び」のようなもので、
毎年同じ手伝いをする事で段々と上達してくる。
そして、そのことを繰り返しながら、徐々に自然、季節と共に
暮らす大切さを無意識のうちに感じていたのだと思います。
その経験は何か、今のデジタル的な生活にも非常に役立っている。
物事の成立ちや起源は、知ると知らないとでは大違いなのだろう。
断片的な事しかわからないとそれに振り回される。元が判れば
勘が働くというか、どんな事でもあまり困る場面がない気がする。
------------------------
今日のテーマで言う「神様」はアマテラスの様な信仰対象ではなく
自然のもの全てに神が宿っていることを、八百万の神と表現する。
海外では八百万の神はShinto(神道)の一部として紹介されています。
日本では昔から山の神様、田んぼの神様、トイレの神様、台所の神様
米粒の中にも神様がいると考えられてきました。
自然に存在するものを崇拝する気持ちに神が宿っていると考え、
八百万の神と言われるようになったと考えられます。
八百万とは無限に近い神がいることを表していますが、祖父母との
生活を通じ、何にでも神様が宿っていると気づき大切にし、感謝の
気持ちをもつという事を、具体的に教わったわけではないが日々
子供ながらに感じていたのかもしれません。
今は何でも「お金」で買える時代になりました。その一方でみんなの
八百万の神はいなくなってしまったのか、または既に見えなくなって
しまったのか・・。日々生活をしながら淋しく感じます。
一人でもその心を忘れなければ、必ず次の誰かに伝わると思います。
(人工知能にも八百万の神の精神は組み込んでいきたい!笑)
世の中の全てのものは個人の所有物ではなく、全て平等な恵みです。
人を蹴散らし、欲でモノを得ようとする前に自分自身もその恵みの
一部だということに気づくの事が大切かもしれませんね^^
新興宗教の話には関わりませんのであしからず^^
今日は時代をさかのぼり、祖父母といた頃の話を。
私は丁度人間形成をされる年齢の頃に祖父母の家で暮らして
いました。ハイジのおじいさん家のような(標高は高くないけど)
大自然の中で、自然の摂理に沿って生活をしている環境でした。
祖母は、誰に言われるでもなく、過去姑さんから受けついだ慣習も
生活の一部に溶込み様々な知恵を使い自然と共に暮らしていました。
昭和の家電界の三種の神器と言えばテレビ・洗濯機・冷蔵庫?
私の頃にはもちろんカラーテレビですし、家電も多くありましたが
それ以外のものは、大正時代の建屋を移築した当時のままで
台所はおくどさん、お風呂は薪風呂、海産物以外の殆どの食料は
自宅もしくは所有の山で作られたり採れたものでした。
しかも当時色々なものを食べ、作る工程も毎回手伝わされて
いましたが、田植えや畑や山菜採りに借り出されるのはもちろん、
裏庭にある茶畑の茶摘、お茶を蒸しもまされたり、裏庭で育てた
蕎麦は乾燥させ石臼で引いてふるいをかけさせられ、こんにゃくも
麹も作っていた記憶があるので、とにかく食料は全てダッシュ村の
ように1から作り育て、加工していたのだと思います。
近所では、そこまでする家はあまりなかったように思うので、
単なる祖父母の趣味なのか、昔のスタイルを貫いていたのか・・。
(私が生まれる前は牛もいて、養蚕もしていたそうです。)
肉類も同様で、庭で育てた鶏がいて、冬は猟をし今で言うジビエ
もあり、今思えば「食材」を作る工程を知りながら食していたので
本当の贅沢、旬の美味しいものを知っているのかもしれません。
新鮮で旬のものは手を加えなくても十分美味しいのです。
で、そんな毎日の家を守る祖母の慣習的行動には今思い返しても
頭が下がります。体調の悪い時もあっただろうに行事や家仕事を
休んだところは一度も見た事がありませんでした。
二十四節気毎の行事を全て行い、祝日に日本国旗を玄関に立てる。
食事は人工的なものは一切使わなかった為、だしも一からとり、
出涸らしも活用して、残りは肥料に。生ゴミもありません。
真冬は、もみを取り終わり乾燥させたワラが縁側の隅に大量に
積まれており、ストーブを背にして縁側で一握りのワラを二股に
して撚りをかけ、先端を縛ると1本の太いものをもくもくと作る。
(この状態のものは来年刈り取った稲を縛るモノになります)
この長さで縛り、ハデ掛け天日干しをした米は抜群に美味しくなる。
短い長さのものを端同士を重ねて更に撚ることで長くて
丈夫な縄になる。お正月はこの方法を応用し、家に飾るしめなわを
見よう見まねで作ったりもしたが、これが案外子供には難しい。
長い冬を越えるために、秋に収穫した実りは長期保存ができるよう
切って乾燥させたり、漬けたり、麹に混ぜたりと案外冬も家仕事は
忙しいのだ。いつの時でも縁側は大活躍する。
子供の頃の私にとっては、お手伝いは「遊び」のようなもので、
毎年同じ手伝いをする事で段々と上達してくる。
そして、そのことを繰り返しながら、徐々に自然、季節と共に
暮らす大切さを無意識のうちに感じていたのだと思います。
その経験は何か、今のデジタル的な生活にも非常に役立っている。
物事の成立ちや起源は、知ると知らないとでは大違いなのだろう。
断片的な事しかわからないとそれに振り回される。元が判れば
勘が働くというか、どんな事でもあまり困る場面がない気がする。
------------------------
今日のテーマで言う「神様」はアマテラスの様な信仰対象ではなく
自然のもの全てに神が宿っていることを、八百万の神と表現する。
海外では八百万の神はShinto(神道)の一部として紹介されています。
日本では昔から山の神様、田んぼの神様、トイレの神様、台所の神様
米粒の中にも神様がいると考えられてきました。
自然に存在するものを崇拝する気持ちに神が宿っていると考え、
八百万の神と言われるようになったと考えられます。
八百万とは無限に近い神がいることを表していますが、祖父母との
生活を通じ、何にでも神様が宿っていると気づき大切にし、感謝の
気持ちをもつという事を、具体的に教わったわけではないが日々
子供ながらに感じていたのかもしれません。
今は何でも「お金」で買える時代になりました。その一方でみんなの
八百万の神はいなくなってしまったのか、または既に見えなくなって
しまったのか・・。日々生活をしながら淋しく感じます。
一人でもその心を忘れなければ、必ず次の誰かに伝わると思います。
(人工知能にも八百万の神の精神は組み込んでいきたい!笑)
世の中の全てのものは個人の所有物ではなく、全て平等な恵みです。
人を蹴散らし、欲でモノを得ようとする前に自分自身もその恵みの
一部だということに気づくの事が大切かもしれませんね^^