第4話

軸を選ぶということ

――答えのない場所で、共に立つ覚悟

 

 

■ 前夜

――問い直される「社長」という役割

 

夜のオフィスは、昼間とはまるで別の顔を持っている。

人の気配が消えたフロアには、照明の落ちた天井と、
パソコンの待機ランプだけが淡く残り、
時間の流れそのものが遅くなったように感じられた。

 

佐伯は一人、デスクに腰を下ろしていた。

資料を開いているわけでも、
メールを書いているわけでもない。

ただ、椅子に深く身を沈め、
天井を見上げている。

画面はすでにスリープ状態に入り、
黒い鏡のように自分の顔を映していた。

 

そこに映る表情は、
疲れているようにも、
考え込んでいるようにも見えた。

 

(善意が、軋みを生んだ)

 

その言葉が、頭の中で何度も反芻される。

西田の声ではない。
岡田の声でもない。

 

自分自身の内側から、
何度も浮かび上がってくる言葉だった。

現場に行った。
声を聞いた。
社員を見た。

 

どれも、これまでの自分が
「やれていなかったこと」だ。

だからこそ、正しいと思った。


遅すぎたが、ようやく始められた、とすら思っていた。

だが、現実はどうだったか。

部長たちは戸惑い、
現場では指揮系統が揺れ、
岡田は板挟みになった。

 

(俺は……何を間違えたんだ)

 

そう考えかけて、佐伯は小さく首を振った。

違う。
問いが違う。

 

西田の言葉が、
胸の奥で静かに蘇る。

――「社長、その一歩は間違っていません」

 

では、何が足りなかったのか。

佐伯は、しばらく黙り込んだまま、
ゆっくりと息を吐いた。

 

(俺は……何を恐れていたんだ)

 

その問いは、すぐには答えを返さなかった。
だが、逃げることも許さなかった。

佐伯は机の上に置かれた手帳を開いた。

 

そこには、数週間前に書いた走り書きが残っている。

・社員との距離を縮める
・風通しを良くする
・自分が変わる

どれも間違っていない。


だが、どれも輪郭が曖昧だった。

(俺は、正しいことをやろうとしていただけだ)
(でも……正しさだけじゃ、足りなかった)

そのことだけは、はっきりしていた。

 

恐れていたのは、
任せること。
委ねること。
自分が「中心」にいない状態になること。

 

創業期。
会社は、自分そのものだった。

判断も、責任も、決断も、
すべてが自分に集約されていた。

だが今は違う。

 

社員が増え、
部長が生まれ、
組織は、もはや
「自分の延長」ではない。

それでも佐伯は、無意識のうちに、

「自分が直接見なければ」
「自分が直接聞かなければ」

と、手綱を引き寄せ続けていた。

 

(信じていなかったのか……?)

社員を、ではない。
部長たちを、だ。

 

その事実に気づいた瞬間、
胸の奥が静かに痛んだ。

 

翌日は、部長会が控えている。

 

避けては通れない場だった。

佐伯は椅子から立ち上がり、
窓の外を見た。

夜景の向こうに、答えはない。


だが、逃げ場もなかった。

(完璧な答えは、出せない)
(だが、逃げないことだけは……できるはずだ)

その覚悟だけを胸に、
佐伯は照明を落とした。

 


■ 部長会

――試される場

 

翌朝。

会議室には、いつもより早く、
四人の部長が集まっていた。

 

誰も雑談をしない。
資料を広げる者もいない。

ただ、それぞれが微妙に距離を保ちながら、
静かに席に着いている。

 

そこへ、佐伯が入ってきた。

 

「おはようございます」

その一言が、やけに大きく響いた。

返事はあったが、どれも短い。

 

佐伯は席に着くと、
一度、全員の顔を見渡した。

 

視線が合う者もいれば、
目を伏せる者もいる。

 

(当然だな)

自分がしてきたことを思えば、
この空気はむしろ自然だった。

 

「……今日は、時間を取ってもらってありがとうございます」

 

そう前置きして、
佐伯は頭を下げた。

 

「まず、謝らせてください」

 

空気が、わずかに揺れた。

「ここ最近、私の行動で、皆さんに戸惑いや不安を与えたと思います」

「現場への訪問、社員との直接のやり取り……」

「皆さんの立場や役割を、十分に考えきれていませんでした」

誰も、すぐには反応しない。

 

だが、その沈黙は拒絶ではなかった。

(聞いては、いる)

佐伯は言葉を続けた。

 

「私は、会社を良くしたい一心でした」

「ですが、その“良さ”を、自分一人で定義しようとしていた」

「それが、今日、皆さんに一番伝えたい反省です」

 

部長の一人が、わずかに姿勢を変えた。


だが、賛同の言葉は出ない。

(拍手も、同意も、いらない)

佐伯はそう自分に言い聞かせ、さらに言葉を重ねた。

 

「正直に言います」

「私は、ずっと“正しい判断”をしようとしてきました」

「社長として、間違えないために」

 

部長たちは黙って聞いている。

 

「でも、気づいたんです」

「正しさを一人で抱えるほど、組織は歪む」

西田が、わずかに目を伏せた。

「私は、もう独りで決めません」

「皆さんと一緒に、迷います」

 

その言葉は、
宣言というより、吐露に近かった。

 


■ 揺れ

――理解しようとするが、掴めない

 

管理部長が口を開いた。

「社長のお考えは、理解しようとしています」

その言い方には、距離があった。

 

「ただ……現場にどう落とし込むのかが、正直まだ見えません」

「方針として示されているわけでもない」
「数値目標があるわけでもない」

 

技術部長が続く。

「お考え自体は、分かる気がします」

「社員を大事にする」
「現場を見る」

「それ自体に、反対はありません」

「でも――」

 

言葉は、そこで止まった。

その先を言わないのは、
配慮でもあり、戸惑いでもあった。

 

総務部長も続く。

「社長が変わろうとしているのは、感じます」

「ただ……正直に言えば、いきなりで」
「雲をつかむような話に聞こえる部分もあります」

 

誰も責めてはいない。

だが、誰も踏み出せない。

 

会議室は、奇妙な状態に入っていた。

否定されていない。


しかし、動けない。

(止まっているんじゃない……判断を保留しているんだ)

佐伯はそう理解した。

 

そして、その空気を最も正確に感じ取っているのが、
西田だということも。

 


■ 完璧な答えを、手放す

西田は、発言を急がなかった。

 

部長たちの言葉を
一つひとつ受け止めたうえで、
静かに口を開いた。

 

「皆さんのおっしゃることは、もっともです」

その一言で、
場の緊張がわずかに緩む。

 

「社長の言葉は、“完成形”には程遠い」

「だから、掴みきれないのは当然です」

 

西田は佐伯を見る。

「ですが、私は一つだけ感じています」

「社長は、“答え”を出そうとしているのではない」

「“姿勢”を示そうとしているのだ、と」

 

佐伯は、その言葉に
救われるような感覚を覚えた。

 

「皆さん」

佐伯は、ゆっくりと口を開いた。

 

「正直に言います」

「私は、まだ明確な答えを持っていません」

 

部長たちの表情が、わずかに変わる。

「どんな仕組みが最適なのか」
「どこまで私が関わるべきなのか」

「それを、今日ここで、きれいに示すことはできない」

 

沈黙。

だが、佐伯は続けた。

 

「ただ、一つだけ、はっきりしていることがあります」

 

視線が集まる。

「私はもう、“分かっている社長”を演じるのをやめたい」

「分からないことを、分からないと言える組織でありたい」

 

西田が、静かにうなずいた。

「現場と経営の距離を縮めることを、私たちは少し怠っていた」

「ですが、それは私が一人で動くことではありませんでした」

「皆さんと一緒に、役割を整理しながら進めたい」

 

それは、方針ではなかった。
数値も、期限もない。

だが、嘘はなかった。

 

西田が補足する。

「社長は、今ここで正解を出すことよりも、
考え続ける軸を共有したい、
という理解でよろしいですか」

 

「はい」

 

その短い返事に、佐伯の覚悟が滲んでいた。

 


■ 余波

――小さな変化

会議は、静かに終わった。

誰も賛成しなかった。
だが、誰も反対もしなかった。

 

それぞれの場所で、
それぞれの速度で、
小さな揺れが生まれていた。

 

数日後。
岡田から、短いメールが届く。

 

部長が現場の話を
聞いてくれるようになりました。
社長が直接来なくても、
空気が少し変わっています。

 

佐伯は画面を見つめ、
深く息を吐いた。

 

(すぐに結果は出ない)


それでいい、と初めて思えた。

 


 

■ 結び

――軸とは、答えではなく姿勢

 

夜。
佐伯は、西田と静かな会議室にいた。

 

「軸が見えた気がします」

「はい」

「自分の会社じゃない。みんなの会社だ、ということですね」

 

西田は、ゆっくりとうなずいた。

「良い軸です」
「そして、一番難しい」

 

佐伯は苦笑する。

「だから、もう独りではやらない」

 

西田は、確かに微笑んだ。

 

翌朝。
佐伯は、いつもより早くオフィスに入った。

ノートを開き、
書いたのは、計画でも戦略でもない。

 

・独りで決めない
・分からないと言う
・関係性を壊さない

 

それだけだった。

成功の保証はない。
正解もない。

 

だが、
戻らない場所だけは、
はっきりしている。

 

迷いながらでも、
共に進む経営者として。

 

 

 

 

 

 

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