いつものグ○グルマップネタ
今回はオーストラリア北東のソロモン諸島です
ちなみに上図で『ソロモン諸島』と記されている島こそ『餓島』の悪名高い『ガダルカナル島』です
真珠湾攻撃~南方作戦~インド洋作戦と連戦連勝を重ねた日本海軍は、対米戦略の第二段として『米豪遮断作戦』を発動しました
オーストラリアは工業力が低く、自前で兵器などを生産する事が困難なのでアメリカからの供給に頼っています
同時にイギリスもまたオーストラリアの生産力に頼っており、英豪を繋ぐインド洋のシーレーンを遮断すると共に米豪のシーレーンを遮断する事で連合国からオーストラリアを脱落させる事を目指した作戦でした
また日本が南部太平洋を制圧すれば、アメリカがインド洋のイギリスの生存圏を護ろうとした時に大西洋を縦断し喜望峰ルートでインド洋を目指さなければならず、大きな負担を強いる事が出来ると考えられたのです
このアメリカ本土・ハワイ~オーストラリアの連絡線を遮断すべく、ガダルカナル島に飛行場を建設し航空部隊を配置して制空権を確保、ラバウル基地から水上艦・潜水艦を展開させようという計画でした
この障害になると考えられたオーストラリア軍の拠点のあるポートモレスビーを攻略しようとMO作戦が1942年5月に決行されることになります
ガダルカナル島への飛行場建設に先立ち、その北方にあるフロリダ諸島ニュラ・シュル(ンゲラスレ)島の一部であるツラギ島に大型飛行艇の基地を作る作戦が同時期に行われていました
細長い舟が沈んでるのが見えます
これはその支援中に米空母『ヨークタウン』艦載機の攻撃を受けて擱座放棄された睦月型駆逐艦『菊月』です

「睦月型駆逐艦の9番艦、菊月だ。
緒戦は数々の攻略作戦に参加。
そして、船団護衛に従事したんだ。
いや、護衛任務も大切なミッションだ……。」
これを阻止しようとした米海軍と史上初の空母機動部隊同士の海戦である『珊瑚海海戦』が行われます
海戦自体は両者痛み分けという感じでしたが、予想外に大きな損害を出した日本海軍はポートモレスビー攻略を断念します(司令官の井上成美中将は後方で有能な軍官僚というタイプで、作戦失敗を聞いた昭和天皇からも「井上は学者だから」と嘆息されてしまったそうです。もっともポートモレスビー攻略に成功しても防衛に追われるだけで意義を見出していなかった為、海戦の損耗を理由にして中止したという見方もあるそうですが:重巡利根艦長黛治夫大佐談)
しかしガダルカナル島への飛行場建設は続行され、1943年からと想定された敵の反撃に備えることになりました
この希望的観測が失敗の原因でした
珊瑚海海戦の2ヶ月後の1942年6月に行われたミッドウェー海戦では日本軍は4隻の空母を失う大敗を喫しましたが、一方の米軍も1隻の空母を失っており当面太平洋に展開できる戦力は空母2~3隻しかなくなっていたのです(瞬間的には0隻になったことも)
この珊瑚海海戦では日本軍が正規空母『翔鶴』『瑞鶴』軽空母『祥鳳』を、米軍は正規空母『レキシントン』『ヨークタウン』を投入、搭載機数の大きい米空母の特性を考えても戦力はほぼ互角の戦いでした
日本軍は祥鳳を失い翔鶴が中破、米軍はレキシントンを失いヨークタウンが中破とこちらも互角の損害を負います
日本軍はヨークタウンも撃沈と誤認し、直後のミッドウェイ海戦では米軍側の空母はせいぜい1~2隻しか出してこれないと考えていました
しかし米軍はヨークタウンを真珠湾に回航し不眠不休の工事を行い3日で応急修理を終え、戦線に復帰させます(珊瑚海で失った艦載機も、これに先立ち雷撃を受けて修理中だった空母サラトガの艦載機を載せて出撃した)
一方日本軍は珊瑚海で傷付いた翔鶴を日本本土に回航しますが、ほぼ無傷の瑞鶴はトラック島に留め置き後にやはり本土へ戻しました
さらに翔鶴が港に到着したのが日曜日だった為、ドックの入渠する手間がかかり時間を浪費する有様
米軍が別の空母の航空隊を載せ替えてまで戦力をやりくりしてるのに、日本は瑞鶴を遊ばせておくという危機感の無さを露呈していました(日本軍は珊瑚海で着艦能力を失った翔鶴機を収容するため、瑞鶴の損傷機を海上投棄していたが『捨て過ぎた』為に戦力が低下、ポートモレスビー攻略を中止する一因になり、瑞鶴をミッドウェー戦に投入しない判断にもつながった)
ミッドウェー海戦で敗れたのはこれらの慢心に原因があると言っても良かったでしょう
珊瑚海海戦後のソロモン海でも、米軍が反攻に転じるのは戦力の揃う1943年の秋以降と日本軍は考えていましたが、米軍は8月にはこの飛行場を奪うべくガダルカナル島に陸上部隊を送り込んできたのでした
日本軍が『ルンガ飛行場』と名付ける事になっていたこの飛行場は完成と共に米軍に奪われ、『ヘンダーソン飛行場』と名を変えます(現在はホニアラ国際空港)
日本軍は先の展望からこの攻撃を飛行場の破壊を目的としていると考え、作戦目的を達成した以上はわずかな反撃を加えれば敵は撤退していくだろうと予想します
このため飛行場設営部隊1200人の生き残りに加え、増援の一木支隊2300人(第1陣はわずか900人)を送り込めば破壊された飛行場の奪還は容易だろうと考えたのです
その後は敵の妨害は激しくなるでしょうが飛行場を修復して航空部隊を展開させれば、攻守は再び逆転するだろうと考えたのでした
しかし米軍側は恒久的にこの飛行場を奪取し運用すべく、ツラギ基地の攻略と合わせて2万人もの戦力を送り込んでいたのです(日本軍側はせいぜい2000名と予想していた)
兵力はもちろん火力でも圧倒的な米軍の前に一木支隊は瞬殺の態で壊滅します
日本軍はこの直後に川口支隊4000人を増派、海軍も夜陰に紛れて飛行場を艦砲射撃で破壊すべく戦艦を始めとする艦隊を逐次投入していきます(戦術的に最も下策と言われる小出しの戦力投入)
連合軍側も一歩も引かず竣工間もない新型戦艦など虎の子の戦力を惜しげもなく投入(一方日本軍は同じく竣工から8ヵ月ほどの戦艦大和を温存し続けた。だって燃料が無かったから)
(;・ω・) 「この辺の判断の甘さと軍上層部の戦意の不徹底を見ると、戦争に負けた理由が納得できます」
1942年8月以降の実質数ヶ月間に繰り返された戦闘で、これだけの数の軍艦・輸送船がこの狭い海域に沈む事になったのでした
この海峡(サウンド)には鉄の船が敷き詰められている、との警句から付いた綽名が『アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)』
上図には菊月の名はありませんが、彼女こそこの海に沈んだ最初の軍艦だと言えるでしょう(鉄底海峡はヘンダーソン飛行場をめぐる戦いによって沈んだ艦を指すと定義されるので、それ以前のツラギ水上機基地設営支援の最中に沈んだ菊月は数えられないらしい)
菊月はツラギ島が米軍に奪取された1943年に擱座したものを引き上げられて調査された後、この場所に放棄されました
まるで戦争映画のポスターの様な情景ですが、これは同じ戦いで破壊された二式大艇を制圧後に米軍が撮影した物です
場所は3枚目の画像のツラギ島(Tulagi)と赤枠のちょうど中央あたりにあるガブツ島という事です
ラバウル基地からの距離は1100kmもあり、如何に長大な航続力を持つ零戦でさえ片道4時間をかけて到達したガダルカナル上空では15分しか滞在できないとあっては航空支援もままならなかったのです
だからこそ此処に飛行場が必要だったのであり、もしこの飛行場を日本軍が確保していれば米軍
は空母をもってしか此処を攻撃できなかったでしょう
日本軍が確固たる意志を持ってガダルカナルを確保し、例えこの地に数十万の骸を晒してでも奪い取っておけば、日本海軍が望んだ艦隊決戦が発生したかもしれません
実際にはこの戦場は『海軍の』戦争であり、わずか数千の派兵すら陸軍は出し渋っていましたし、その数千規模の部隊の補給すら海軍は供給できないほどだったのです
1942年8月~43年2月まで続いたガダルカナル島の戦いで日本軍は3万6000人の兵員を送り込みその内約2万2000人が死亡していますが、その内2万人は餓死者だったという話もあります
このガダルカナルの戦いでは有名な零戦エースの坂井三郎も敵機の銃撃を受け片目の視力を失っており、海・空・陸を問わず地獄のような激戦が繰り広げられていました
しかも戦略的な意義の少ない戦場だったという皮肉
米軍の事情で言えば、日本側が想定した1943年秋以降の反攻時期だけは正鵠を射ていました
米軍はそれまで時間稼ぎをしたかったわけで、日米間の戦争に直接的な影響を与えないソロモン海に日本軍が進出して消耗戦をやってくれたのは好都合だったわけです
米軍側の損耗も決して少なくはなかったものの、戦艦や空母の2,3隻が沈んでも1年時間稼ぎをすれば駆逐艦や小型空母なら週に1隻のペースで、大型の空母でも月に1隻のペースで建造できるので多少の損失は充分に許容できたのでした(まるでデアゴ○ティーニの『週刊○○を作ろう』のように生み出されるので『週刊駆逐艦』『月刊正規空母』などと呼ばれています)
駆逐艦菊月の喪失はそうした泥沼化していく戦局の端緒となるような一事でした
これは菊月の名を受け継いだたかつき型護衛艦2番艦「きくづき」です
1968年に竣工、1970年には練習艦『かとり』と共に自衛隊としては初の世界1周航海を行うなど活躍したのち、2003年に除籍されました
( ・ω・) 「9月の旧暦の別名が菊月なので・・・ってもう11月ですがw」