海軍の休日 兵どもが夢の痕 | Dream Box

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今回はもう一枚目からネタバレ必至なここハワイから



オアフ島南部の真珠湾の中央に浮かぶフォード島をさらにズーム



東岸に置かれたこの大きな船は戦艦『ミズーリ』です







1998年からこの場所に置かれているミズーリの手前のある白い防波堤の様な施設はアリゾナ記念館です





1941年12月7日(現地時間)、空母6隻からなる日本海軍の艦載機攻撃部隊が強襲攻撃を受けて沈んだ5隻の戦艦の1つである『アリゾナ』の沈没地点に設けられた施設です



そしてミズーリは1945年9月2日、日本と連合国との間で降伏文書の調印式が行われた場所でもあります

つまり戦争の始まりと終わりの象徴的な2つの戦艦を並べて見せたわけです

日本では8月15日を終戦記念日と感じていますが、この調印式を以って戦争は一応正式に終結となるので連合国を中心に9月2日を終戦の日とする事が多いのです

ちなみにこの調印式にソ連代表も参加署名していますが、その瞬間にも北方領土の侵攻は続いており最終的に全島の制圧が完了したのは9月5日の事でした



先頭の杖を手にしてるのは重光葵(しげみつまもる)政府全権

1932年の上海天長節爆弾テロ事件(大韓民国上海臨時政府を称するテロ団体が行った)で片足を失っており、ミズーリへの乗艦や署名の際に手間取ったのを艦隊司令官でこの調印式の合わせて旗艦を移していたハルゼー提督は見苦しい引き延ばしと取り「サインしろ、この野郎! サインしろ!」と罵ったとか言われています


大和型戦艦のライバルとして語られる事の多いアイオワ級戦艦ですが、建造時期を見ると大和型のライバルはノースカロライナ級戦艦かサウスダコタ級戦艦であり、性能や設計から見るとアイオワ級が想定したライバルは金剛型戦艦のようです

日本海軍で最も古い戦艦である金剛型ですが度重なる改装によって最高速力30ktの高速戦艦となっており、その古さから損耗を許容され積極的に使われた結果日本海軍において最も活躍した戦艦という評価を受けるに至ります

日本がミッドウェイの敗北以降戦艦の建造を取り止めたのに対し、高速戦艦である金剛型を脅威に感じていた米海軍はそれまでのサウスダコタ級(27.8kt)・ノースカロライナ級(28kt)では不安を感じアイオワ級4隻の建造を続けたのでした(さすがに6隻建造の計画から2隻はキャンセルした。同時期に建造された大型巡洋艦(実質的に巡洋戦艦)のアラスカ級は翔鶴型“空母”に対抗して作られたという説も。ちなみに英仏露は第2次大戦後にまで戦艦の建造を続けていたりする)

もっとも戦争後半になると戦艦が決戦兵器として活躍できる場は完全になくなっており、空母機動部隊の対空護衛艦か艦砲射撃にしかその能力を披露する機会は無くなっていました

ミズーリが降伏文書調印式の場に選ばれたのは、そうした『無用の長物』の誹りを回避する為とこの艦名が当時の大統領トルーマンの出身地に因るためと考えられます

先述のハルゼーもレイテ沖海戦において小沢艦隊の陽動に引っ掛かってレイテ湾口の上陸部隊や支援艦隊を危険にさらしたり、2度の台風に突入して多くの艦艇を破損させたりした事から更迭という話もあったものの、英雄として喧伝していたハルゼーを更迭すれば対日戦の功績が全て陸軍のマッカーサーに帰するイメージが広まる怖れがあった為と左遷を逃れたと言われています

戦後は何度も改装や予備役編入を繰り返しながら1990年代の湾岸戦争まで実戦に参加し、その後記念艦として真珠湾に保存される事になったのでした(改装を繰り返したためにアメリカの博物館や記憶遺産としての認定を受けられなくなり、唯の記念艦として民間に払い下げられている)



ミズーリの右舷後方にはある記念碑が儲けられています

1945年4月11日、沖縄沖のミズーリに対し爆装した零戦が特攻をしかけこの場所に突入しました



その傷痕の歪みは修復される事無く、今も残されています


                       突入直前の特攻機



この零戦の操縦士は石野節雄二等飛行兵曹(享年19歳)、又は石井兼吉二等飛行兵曹(享年22歳)と言われています(同時に2機が突入しており、片方は直前に撃墜されている)

人間を誘導装置とする非情な戦術により若い命を散らした特攻でしたが、排水量5万㌧、主砲弾重量1.2㌧(榴弾で850㎏)の激突に堪える装甲が与えられている戦艦に自重2㌧程度+250㎏爆弾装備の零戦が突入してもこの程度のかすり傷しか与えられないのが現実でした

この特攻による死亡者は操縦士1人のみでした

爆散した機体から飛び出した遺体の“一部”は付近の機銃座から発見されました

艦長であるキャラハン大佐は勇気ある敵兵の遺体を丁重に扱う事を指示し、海軍の伝統に従って水葬に賦することを命じます

この時期の米海軍兵士は特攻という異常な戦法に非常にナーバスになっており、そんな敵兵を栄誉をもって扱えという艦長に反感を憶える乗員も多かったと言います

しかし、艦長は艦内放送で“死んだ兵士はもはや敵ではない。彼もまた諸君と同じく義務を果たし祖国と家族を守ろうとした勇者だ”という趣旨の言葉で訴えたそうです

キャラハン大佐自身がこの戦争で実兄を日本軍との戦闘で失っており、戦争終盤の、一つの国が亡ぼうとする断末魔の狂気が戦場を覆い尽くし誰もが正気を失うなかで、人間性を失うまいとする僅かな抵抗だったのでしょうか

翌12日、急遽作られた旭日旗に包まれた遺体が礼砲の轟く中で、全乗員の敬礼に見送られ水葬に賦されました

ミズーリが退役するまでの全期間を通じて唯一行われた葬儀でした

なお2001年4月12日にはキャラハン艦長の子息や存命のかつての乗員、特攻部隊の遺族が参列してミズーリ艦上で追悼式が催されたそうです




( ・ω・) 「遺体を包んだ旭日旗は星条旗を改造して作られたそうです」