劫 | Dream Box

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このブログの内容は5割の誤解と4割の勘違い、2割の嘘で成り立っています

世界で一番大きい一枚岩は?

オーストラリアにある「エアーズロック」と思ってる人は間違い

同じオーストラリアにある「マウント・オーガスタ」の方がエアーズロックより2.5倍ほど大きく、世界最大なんだそうです

底面積が95平方㎞もあるそうで、簡単に考えると9.7㎞四方の正方形を考えて貰うと分かり易く…ないですが、そんな大きさだと思ってください

更にこの2倍、底面積で200平方㎞の巨大な1枚岩があると考えて下さい

そこに3年に1度天女が舞い降りて、その身体に纏う羽衣ですぅーっと1回だけ撫でて帰っていきます

それが繰り返されてその岩が擦り切れてなくなってしまうまでに、一体どれだけの時間が掛かるでしょうか

それが“劫”(こう)という単位です

天女などと云うものが出てくる事から察する通り仏教での考え方なのですが、想像もできないくらい遠大な時間を指す概念という事です

ヒンドゥー教では43億2000万年となるそうですが、岩が擦り切れる前に地球が無くなっているでしょうから間違ってはいないでしょう

慣用句に「億劫」という表現がありますが、百千万億劫という単位が省略化されたものだそうです

これは先ほどの劫を100倍の千倍の1万倍の1億倍した単位だそうで432抒年(432兆年の1兆倍)を表す単位だそうです(仏教における劫は比喩的な概念であって命数ではない為、本当はこうした計算は成り立ちません)

億劫とは何かをするのが面倒くさいという意味で使われることが多いのですが、432兆年の1兆倍も掛かる事をやるのはおろか、数えるのも億劫になってしまいま…Σ(゚Д゚ )ナルホドッ

というか、宇宙が出来てからたったの138億年しか経っていないと云われてるので、億劫を実感できるほどの時間はまだ経過していないんですが

ちなみに10年ほど前に流行った「ヒカルの碁」で碁を始めてみちゃったりした人は、同じ目に置いた石を延々と取り合う事を禁じた「コウ」というルールを知ってると思いますが、この語源も劫から来ているそうです

そら同じ石の取り合いを43億2000万回もやってたら、どっちかが諦める前に寿命が来るでしょうからルールで禁じておくべきでしょうw


ちょっと前のガンダムに「刹那・F・セイエイ」というキャラがいましたが、この刹那というのも仏教に原典を持つ数の単位(というか、やはり概念)です

こちらは1以下の小数の世界で、命数法では1/100000000000000000(10^-17)にあたります

仏典によっては1/75秒という現実的な数値に換算できる事もあるのですが、やはり比喩的な表現としてパチンと指を弾く時間の1/65とする説明もあるそうです

刹那的な生き方、刹那の快楽に身を委ね~などの表現がありますが、短い人生を無駄に浪費することの比喩的な意味合いをもって使われる言葉に1/75秒という更に短い単位を持ってくるあたり皮肉が効いています

この小さい命数を突き詰めていくと、10^-22に阿頼耶という単位が出てきます

「聖闘士星☆矢」にも出てきたエイトセンシズ、阿頼耶識に通じるものです

人間には五感(又は五識、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)がありますが、その先にややオカルト的な概念である第六感と呼ばれるような感覚があると言います

仏教ではこれを「意識」と呼んでいます

さらに先にある第七感を「未那識」といい、意識し得ない感情の根幹的な意味で「自我」を指すようです(この辺は宗派によって違います)

さらにその先にあるのがこの阿頼耶識だそうで、単に心だけでなくその前にある七識を含めた根元的なもので、七識までが花や茎や葉や根だとするならこの阿頼耶識は種に当たるようです

つまり植物が自分を認識している時は種の事を認識できず、植物の生命が尽きる時に種に戻り、また芽吹く時には種であった自覚を失う、と云う様な事らしいです

だそうです、らしいです、のようです、といった表現が続くのはご容赦下さい

完全に理解できてたら聖職者になれてますw

生命という存在の根元中の根源に当たるものが0.00000000000000000000001という単位で表されてしまうのは面白い事です(単位としての阿頼耶と宗教上の概念としての阿頼耶識は別物という考え方もあるようですが)

尤も日本の仏教では八識の先にも阿摩羅識を加えて九識(天台宗)、さらに乾栗陀耶識を加えて十識(真言宗)としているそうですが、これはちょっと蛇足に思えます


全く曖昧な定義を許さない数字の世界と、全く完全な定義を許さない観念的な宗教の世界が二人三脚のように寄り添ってお互いを補完しているようで、とても面白い世界観だと感じます

人間は自分の中に「物差し」を持っています

人によってその物差しは18㎝台だったり30㎝台だったり、裁縫に使う様な1mサイズだったりします

人間はその物差しで測れる物については正確に知る事が出来ますが、自分の認識を超えるものは測れないという事です

18㎝の物差ししか持たない者が1mの物を正確に測ることが出来ません

誰かが「この物の長さは1mだよ」と教えてくれても、彼が嘘を吐いていたり騙そうとしていて自分がより短い物差ししか持っていなければ、その嘘を見抜くことは出来ないのです

人間は自分が認識できる範囲のものについては科学という物差しで測ることができますが、それを超えるものについては想像することでしか捉える事が出来ません

例えば中世において人々は地球が宇宙の中心で、星々の方が世界を回ってるという所謂天動説を『信じて』いました

しかし現在の我々はそれが誤りで地球の方が世界を回る星々の一つに過ぎない事を『知って』います

かつてガリレオという天文学者が地動説を唱えた時、当時の文物の最高の権威であった教会はこれを認めず彼を弾劾しました(1612年)

教会が天動説の誤りを認めてガリレオの名誉回復をしたのは何と1992年の事でした

誤りを『信じて』いると真実を認めるのにそれだけの時間が掛かってしまうのです

教会が信仰という古く短い物差しを持っていたために、宇宙という広大な事象を正確に測る事が出来ずに思考停止してしまったという感じでしょうか

先述した宇宙が出来て138億年というのも、現在の人類の物差しで測ったらそうなったというだけで、将来的には変わってしまう事は確実だと私は思ってます


私たちも今同じ誤りを冒そうとしてるのかもしれません

それは例のSTAP細胞の件です

私にはそれが実在するのかどうかは分かりません

恐らく分かる人は世界に数千人もいないんじゃないでしょうか

STAP細胞は有るか無いかの二択で語られるべきものであって、論文の区々たる誤りを捉えて小保方さんが『信じられるか、られないか』の文脈で語るような代物ではないでしょう

それを毎日々々TVで彼女の人間性を云々するような取り上げ方をするのは、かつてガリレオを吊し上げた魔女裁判と変わらないのではと思うのです(というか沈没事件も含めてもう飽きた)


私は神様どころか悪魔も天使も、それどころかUFOや宇宙人や超能力や魔法、幽霊や妖精や妖怪に、もちろん天女だって存在してても良いと思ってます

そういう不思議なものに満ち溢れてる世界は楽しそうです

ただ自分の目でそれらを見たことがないので、実在するともしないとも言えないだけです(幽霊については少なくとも自分の部屋にだけは居なくていいです)

それらのものは実在するかしないかで語られるべきであって、「神様を信じてる」とか「宇宙人はきっといる」とか云うものではないでしょう

だから私は○○を「信じてる」という人を「信用しない」だけです

私が無責任に信じるのは血液型性格診断だけですからw






( ・ω・) 「これが次の記事の前振りに過ぎないとは誰も気づかないでしょう」