原爆開発における米国とナチスドイツ双方の科学者の疑心暗鬼と思い込みと相互不信が、原子力という人類にとって希望を託せるエネルギーと技術を原爆という忌むべき形で世に出してしまった背景にあることを、ドイツのハイゼンベルク博士夫人の書かれた「ハイゼンベルクの追憶」(1980年)を基に推測をまじえつつ紹介したい。
一般に米国の原爆開発はナチスドイツから逃れたユダヤ系科学者がナチによる開発を恐れて、ナチより先に開発すべく極秘に膨大な予算と人をかけて必死に取り組んだ、とされている。
その背景にはウランの核分裂がドイツで発見(1938年)されたためその兵器利用も当然進めるに違いない、なぜなら“あの”ハイゼンベルクがナチス政権下のドイツに残っているから、ということのようだ。
米国はハイゼンベルクを1938~39年にかけて米国に呼び寄せようとした。
しかし真面目で頑固なこの愛国者は、ナチに蹂躙されつつある国の将来を憂い、アインシュタイン等ユダヤ系学者が拓いた理論物理学を専攻する科学者たちを「ナチの威を借りて攻撃する」御用学者連中に悩まされつつも、自分が育てた弟子達を見捨てられず、一国民として絶望的な国を支える決意でドイツ残留を選択し、1939年夏米国亡命の友人学者達に理由を説明すべく渡米した。
しかし友人だった彼等に偽装ナチとみなされて失意のうちに帰国した。
ハイゼンベルグは1940~41年にかけて原子炉の雛形を造ったが、この頃に原爆開発には莫大な費用と数年の時間がかかること、そして科学者としてこれにかかわらない意思を持って、「ドイツは原爆開発不可能」とナチ政府に伝えていたという。
また彼は1941年9月、かつての恩師で親友のニールス・ボーアに会いにデンマークに行っている。
しかしデンマークは1940年にドイツに占領され、ボーアはもはや彼を敵国人と見ていた。
ハイゼンベルクは、言論統制されていたドイツ国内でのように、言質を取られない「あいまいな話し方」ながら、ボーアに「ドイツは原爆を開発せず」と伝え、これを米国の科学者たちに伝えてくれることを期待した。
しかしボーアはその言葉を正反対に受け取り、ハイゼンベルクは原爆開発を進めていると米国に伝えた、という。
1945年5月のドイツ敗戦直後、連合軍のドイツ原爆調査団長に米国は原爆開発をやっていない、と聞かされ、ボーアへの伝言の効果を信じたようだ。
だがその後10名のドイツ人科学者等と英国に数ヶ月抑留されている間に1945年8月、広島・長崎の原爆投下を知って、はじめは信じられず、本当だと知って米国への不信を募らせた、という。
技術を巡るこうした不信の連鎖を見るにつけ、原子力エネルギーの不幸な誕生に残念な思いを感じざるを得ない。
サイエンスライター 世野和平
この記事は2013/3/12の電気新聞に掲載されたものです