かの寺山修司はその「幸福論」の中で、彼の幸福論を形作っている思いについて、我々に話しかけたのだった。
この中で寺山修司は「論」を、彼の云うところの活字という障碍なしに形成するという想いを、あるサイエンス・フィクションを題材として展開してみせた。
そのSFが、レイ・ブラッドベリの「華氏四五一度」なのであった。
この小説において語られるのは、テレビが生活のための環境と化した世界である。
その世界でテレビ番組は、もはや一方的に語りかけるものではなく、スタジオと無数の数の家庭の居間がひとつにつながっているのだ。
スタジオの司会者と居間のソファにくつろぐ人々によって、全ての人類が繋がりあえる、理想のコミュニケーションが実現されているのである。


 ただし、その世界では書物は禁止されていて、書物の所持が発見されるや否や、ファイアマン(消防隊)によって焚書されてしまう。
書物によって有害な情報の市民にもたらされることが防止されているのだ。
ブラッドベリのSFでは、ファイアマンである主人公が禁をおかして、テレビの周りに集まっていた夫人達に書物を読み聞かせる。
そしてその感動の様子に嫉妬した主人公の妻に密告され、追われる身となるのである。


 小説のエンディングには、辺境の地で書物を愛する人々が、それぞれに書物を完全に覚えることによって自ら書物となって住み、それが書物を守ることになっているという情景が提示される。
寺山修司は活字が肉体化されるという光景に、自らの「さらば読書よ」を重ね合わせる。
それは、読書とは「人生が何かによって閉ざされているときの代償体験」ではなかったかという彼の疑義であり、そして「論」が活字によってしか形成できないというのは誤謬であるという、詩人の自己否定にもつながる覚悟でもあるのだ。


 さて、早くも1950年代にブラッドベリが「テレビによる文化の破壊」を予言し、1970年代に寺山修司が「書を捨てよ、町へ出よう」と活字に対する反逆をアジテートした時は過ぎ去ってしまった。
既に二人はこの世に亡く、我々と書物の関係はどこに在るというのであろうか。
今やテレビはとうの昔に環境化されて、あっと云う間に一日の終わりへと老人を運んでくれるタイムマシンとなり、この世のあらゆる書物は電子化されて、タブレットと呼ばれる小さな板に、気ままに呼び出すことができるようになった。
そこでは書物が、少しばかり空いた時間に、スナック菓子のような慰めを与えてくれるものとなったのだ。
そして、活字が「論」を述べるものである等と信じているのは、ブラッドベリが描く辺境の人々のような少数派となったのではないか。


サイエンスライター 朝田培九
この記事は2013/1/29電気新聞に掲載されたものです