東電福島事故で「安全神話」への専門家の共同幻想が厳しく批判されているが、一方で社会は放射線・放射能に対する「危険神話」の共同幻想に陥っている。
いずれもその根底には科学・技術の知識や現実を直視せず、否、直視することを避けて、心の中に自らの知識・常識のレベルでつくったイメージをあたかも真実のごとく錯覚してしまうことにあるようだ。
誤解を恐れずにいえば、専門家の側には、現代社会を特段のリスク無しに形成できるレベルにまで自然力を予測・制御できるという技術への過信が「安全神話」の形で現われたとも言え、それは今回事故を契機に徹底検証して改革すべきことである。
一方、この事故でそれが実態を欠いた本物の「神話」だったと気づいたとき、反動的に人々の心の中に過剰なまでの専門家への不信が生まれ、原子力という“不可解な怪物”に対する不安感とあいまって「危険神話」が社会に流布するのだろう。
そこに専門家にも社会にも「思い込んだが百年目」で周りの状況が目に入らず、焦点となる事柄のみが心の中に肥大して居座って容易に消えないという、心に関する共通の問題の難しさがあるようだ。
「危険神話」に話を絞ると、科学技術を基盤として成り立っている現代社会では、科学技術にともなうリスクの低減に専門家は最大限の配慮をしてもなおかつリスクゼロにはなりえないことは自明であり、人々はそれ相応のリスク感覚を持ちながら、他方で専門家の配慮に信を置かざるを得ないのが実態だ。
しかし現在はそのリスク感覚を超えて「危険神話」の流布とでもいうべき状態になっている。
そこには、自らの過剰なリスク感の正当さを裏付けたい人々が求める“偏った危険情報”を拡散するマスメディアの報道のあり方にも課題無しとしない。
社会の健全さを維持するためにも公平公正かつ科学的合理的な報道がこういう事態にこそ求められるだろう。
福島事故から1年が経った。事態の収集と事故処理が進む中、とりわけ急がれるのが被災地のインフラ整備や環境などの復旧と除染を基本とする避難された方々の帰還と生活の再開であり、そのための瓦礫などの処理処分である。
しかしそれを妨げているものの一つが全国的に広がっている放射線・放射能の「危険神話」である。
特にやりきれないのは、原子炉事故に係る被災地の人々、風評、瓦礫処理の受け入れなどに見られるいわれなき差別感情である。
かつての原爆被爆にも見られたというこうした社会現象は決してあってはならない社会の歪である。
自らの心に向けた理性による科学的合理的な自己検証が一人ひとりに求められるだろう。
災害復旧における合言葉「絆」の意味を改めて考えてもらいたいものだ。
サイエンスライター 世野和平
この記事は2012/4/10の電気新聞に掲載されたものです