最近の政治を見ていても、社会の動きを見ていても、テレビ放送を聞いていても、何か違和感がある。
何々が無いからだめだと、さも絶対的なボーダーラインがあるかのように主張し、未達成のものは排除すべきとの風潮が感じられる。
私たちの暮らしや周りの出来事は、簡単に○×をつけられるものでなく、全て境目のあいまいさの中にあるような気がする。
例題として、最近やっと法律を守ろうと警察が真剣に取り組むようになった自転車について考えてみる。
自転車は歩行者でもなく自動車でもないが、車両等に分類される。
それでは自転車は右側通行なのか左側通行なのかと問えば、車両に属することから車道の左側通行が正になる。
時々歩道を猛スピードで通過する自転車があるが、これは明らかに法律違反である。
しかし、年寄りや子供がゆっくり歩道を走っているのは例外扱いになって違反ではない。
これらの判断は相互により安全な社会をと願って行われていることで、杓子定規な決めごとでは対応できない。
蒸気機関車が走りだした頃、煙突から吐き出される火の粉によって、周辺の茅葺屋根に燃え移り火事になった話を、昔年寄りから聞いた。
蒸気機関車は確かに周囲に火事をもたらし、時には荷車や、それを引く牛や馬を跳ねてしまう危険なものであっただろう。
でも、社会的に許されて、国民が我慢をして待った結果、誰でもがどこにでも楽に行ける乗り物へと進化して、さらに電化という道のりを踏んでスピードアップをできた。
いままで経験したことのない温度、スピード、高度、深海、回転などなど、間違いなく危険を伴うもので、それに挑むことを冒険と呼んできた。
オリンピックでメダルを取る人たちは、常に冒険や恐怖などとの戦いの中にあるだろう。
それを挑戦と言って自分ではできない私たちは応援してきている。
しかし、これらを危険と言って止めさせてしまって良いのだろうか。
地球人口70億人に達し、後40年程度で100億人と呼ばれる時代に、人類として何に挑戦し続けなければならないのであろうか。
それはなんとか全人類がより豊かに生き延びることであろう。
そうした時に○×で切り捨てて行っては、前進は無くなってしまう。
メリットがあれば必ずデメリットは存在する。
メリットだけの物などなく、特に新たに生み出されたものには多くのデメリットがある。
良いところを引き出し、さらに育てるとともに、悪いところを解明し、それを克服してこそ、人類の将来が期待されるし見えてくる。
少しでも悪い物を見つけて×をつける考え方は、科学技術や暮らしの進化の否定に繋がる。
人類の滅亡を期待してのことか、賢い自分だけ生きられると思うのか、あまりにも利己主義と言える。
サイエンスライター 高岡章喜
この記事は2011/12/20の電気新聞に掲載されたものです