技術と社会との係わり合いを見ると、大まかに言って20世紀は「技術とそれを扱う専門家」が社会を牽引したいわば「ものをつくる側の論理」優先で国も後押しした社会、しかし東西冷戦の消滅や進展する市場経済の中で、世紀末から21世紀にかけて「市民・生活者が思想を語り始め社会の主役になってくる」いわば「ものを使う側の論理」が主流になってくるように思われる。
「市民民主主義」社会ともいわれるようだ。


 そして現代社会においては、科学技術は我々が逃れようのない社会をとりまく「環境」として存在し、それが社会の基盤を支えるという方向はこれからも高まりこそすれ衰えを見せてはいない。


 しかし科学技術が既にして「環境」であるにもかかわらず、わが国の社会は科学技術の利便性は大いに是としつつ、その本質やあり方、安全性とリスクなどに対して正面から向き合い、対処する準備ができていたか。
今回の東電福島事故は「ものをつくる側」も「ものを使う側」もその準備が十分ではなかったことを明らかにした。


 専門家・国側は相変わらず「知らしむべからず、拠らしむべし」を引きずって「任せておけ、余計な情報は出さない」姿勢が目立ち、一方、市民・生活者側は「市民民主主義社会ではそうあるべき」とされているにもかかわらず、科学技術に存在するリスクについて一人ひとりが自分のこととして理性によって評価・判断する以前に、情緒に押し流されて「科学技術の果実は歓迎だがいささかのリスクも拒否」の態度が目立つようだ。
風評の広がりがよい例だ。
そして安心とは究極的には自らの心の不安と戦いながら冷静さを失わない理と情のせめぎあう過程から生まれるものともいえる。
専門家・国は市民・生活者側のそうした真摯な態度に応えられる情報開示・説明などが十分だったか。


 残念ながら原子力は東西冷戦のさ中、イデオロギーに振り回されて教育等の現場から遠ざけられ、一般の人々の学ぶ機会が狭められてきた。
しかしこれからの社会では、科学技術について専門家・国側も市民・生活者側も、それぞれの役目を担いつつ未来の社会を築くために、双方とも変わらなければならない。
専門家と市民の相互対話・相互啓発の時代であろう。


 わが国の原子力平和利用にあたって「民主・自主・公開」原則がある。
原子力初期にはこれは平和利用に徹するための専門家・国側の行動指針の意味が大きかったように思われるが、原子力と共存していく「市民民主主義社会」においてこの3原則は、原子力と社会との関係で専門家・国側はもちろん、市民・生活者側においても、原子力に対する基本的な姿勢として今日的な意義を見出すべき、と思われる。


サイエンスライター 世野和平
この記事は2011/10/25の電気新聞に掲載されたものです