人間は自然界の中に自らの生存環境を確保するために技術を発達させ、より一層快適な生活環境を追い求めてきた。
その到達した先の一つが原子力技術、といえよう。
この技術の背景には、主体である人間が自然を客体化し観察と実験によって自然界の法則をとらえることができる、という西欧的な思想があるといえる。
端的にいって自然界には本質的な偶発現象は存在しない、ランダムに起こる現象は人間が未だ現象の詳細を知り得ないからそう見えるだけ、という考えがあるように思われる。
地震・津波などがその例で、科学技術が発達すればそれは自ずから解明されるもので、それまでの間は確率的な予測と安全余裕を含む技術で対応すれば、自然を制御するのに実用上支障は来たさない、とするものだ。こうしたこともあってか、チェルノブイルやスリーマイル事故などからの教訓と反省は、マン・マシン問題、技術組織の問題、技術を扱う人間の心を問う安全文化の問題、あるいは技術者・経営者の倫理問題など、技術そのものの働きを阻害する内部要因にのみ、言い換えれば人間がつくり出した技術の働きにおける不備な面にのみ、注目されたといえる。
そして地震・津波などの外部要因については、中越沖地震を経験したが、自然力をより正しく把握し、技術によってそれに対抗する、という基本的な方向は変わっていないように思われる。
しかし今回の福島第一発電所の事故は、少々大げさに言えば、技術における自然に対する人間の観方の見直しを迫るもの、という気がしてならない。
人間が自然を客体化し、よりよい生存環境を確保するためにそれと対峙する姿勢をとったとき、前述のように自然は基本的に物理法則に従うという大前提から、自然力の上限を高い確度で把握できる、とせざるを得なくなった。
そうでなければ技術の設計が出来ない。
しかし近年、過去に例を見ない巨大な自然力が頻繁に発生しているのを見ると、素人目には、自然は一種の複雑系であり、初期条件のほんの僅かな違いで予測し得ないとんでもない現象、いわゆるカオスが起こりうるのではないか、という気がする。
歴史地震や津波にしても過去の例をよりどころとしつつ観察・調査・実験などで物理的な上限を想定するのだろうが、ほんの少し断層活動の初期条件が変われば予測し得ない巨大化が容易に起こるのではないか。
そうなると確率的アプローチを含めた今までのような物理的な合理性の延長に限界があるのではないか。
こうしたことから、今後「レベルアップした深層防護」の構築、その底に「人間は自然と柔らかに共生」していくという技術思想があってしかるべき、と考える。
サイエンスライター 世野和平
この記事は2011/5/31の電気新聞に掲載されたものです