年の瀬にいろいろな音が鳴り響いている。
少なくとも都会において、音の聞こえない場所を探すのは極めて困難に思える。
もし無音の場にいたら、多分、それは自分の耳に障害が生じたと思うのではなかろうか。
町の音は殆ど騒音である。
クリスマスソングや呼び込みの声、忙しい母親が子供に注意する鋭い声等、あらゆる音が混合され合成され大騒音となって人々を包み込むが、耳を覆ってしゃがみ込む人は見かけない。
雑踏の中では、全ての人が加害者である騒音発生者であり、騒音被害者である。
はたまた、大晦日の除夜の鐘の音は、大音響であっても、静寂を人々に与える。
厳寒の夜中に行列を作って、大音響に手を合わせて有り難がったりしている。
一方、ピアノの音は、基本的に美しい音である。
よっぽどメチャクチャに弾かない限り、ピアノの音は快感を与えるはずであるが、隣人のピアノの音に腹を立てて、殺傷事件が起きたりしている。
或いは山奥の瀧の音は、轟音でも人を癒したりするが、大雨洪水で川が瀧のように轟音を上げて流れていたら、癒しどころか恐怖で足が竦んでしまう。


 更に複雑なのは、低周波騒音である。
聞こえる人には重大な体調悪化を引き起こすが、聞こえない人は何も感じず何の反応も示さないという。
音というのは本当に不思議な現象である。
音響設備や音響機器は日進月歩の発達を遂げたが、音自体に変化は乏しい。
機器は進化したが、人間の音の感受性は進化したというより、退化したかもしれない。
耳の感度尺度は現在も一般化されていない。多分、エスキーモーの視力が都会人の数倍良いように森や原野に住む人々の耳も都会人の数倍感度があり、音の解析力も高度なはずである。
目の性能は望遠鏡でカバー出来るが、耳は、悪くなって補聴器を利用する程度で、聴力アップが出来る一般的な機器は開発されていない。
逆に、携帯音響機器の発達で、鼓膜は酷使され、音響感知脳は休まるときがないように思われる。
最近は頭蓋骨を振動させて聞かせる装置も開発されたそうである。
起きてから寝るまで、大音量にひたされるということは、動物であるヒトの耳にとって、聴覚神経・脳にとって、どのような影響があるものなのだろうか。
四六時中耳からイヤホンやヘッドホンを外さぬ若者を見て、思わず心配になる。
音の技術は飛躍的に発展進化したが、耳の性能は多分致命的な退化の坂を転げ落ちているのではなかろうか。
原始の闇夜の森で、耳を澄ませて外敵を避けて来た高感度のヒトの聴力は、瀕死の森の声が聞き取れず、目の前まで来ている敵の鼻息すら聞き取れない。
途上国エゴと先進国エゴのぶつかり合いのCOP15。
まず耳を広げて、氷河のきしみ音と砂漠化の足音を聞き取ることに傾聴して欲しいのだが。



サイエンスライター 古井 サブロウ
この記事は2009/12/15の電気新聞に掲載されたものです