現場力という言葉には、何か違和感を覚える。
現場は力がなければ務まらない。
現場に力があるのは当然であり、新たに現場力などと新造語で以前からあるものを新発見化する必要はないのでは。
問題は、現場の力ではなく、現場の力を知らない、信じない経営層では。年次月次収支に汲々とする経営の度量不足こそ改めるべきでは。
悪魔のように細心に現場の力を削がぬように運営して行くのが経営の力では。
現場の仕事は基本的に昔も今も変わらない。
電子化やIT化で表皮的な部分は変わったように見えるが、例えば、火力発電原理は変わらず、熱から蒸気、蒸気から回転、そして発電である。
ボタン一つで、起動停止が出来たとしても、燃料から電気まで作られるプロセスの現場の過酷さは、加速されることはあっても、緩和されることはない。


 だが大名視察ではその過酷さは見えない。むしろ「昔はひどかった、今は…」で終わってしまう。現場にはあらゆる問題が横たわっている。
どれも難解な問題である。全てが綺麗さっぱりと片付くことはない。
全てが片付くときは現場を閉めるときである。
現場は小宇宙である。
マクロでありミクロである。
無機であり有機である。
劣化と進化が同時に起こる。
シンプルで複雑である。
機械的でありながら非常に人間くさい。
思いもよらぬ鈍感さと鋭敏さを合わせ持つ。
判っているようで何もわからない。とにかく現場が全てである。
私は現場育ちである。
現場力とは程遠い、封建的な現場だった。
暴力的な部分もあった。
カイゼンやテイアンもなかった。
しかし、人ありきのウェットな空気が漂っていたように思い出す。
どなり声や物にあたって殺伐とした雰囲気もあった。
しかし、節目のお祭りや送別は、古い映画の一シーンのように輝いていたように思い出す。
ヘルメットに作業服、安全靴は、軽快になったが、中身の人間はドローンとして所在がない。
何故なのかものづくりの最前線に人格がない。単なる人件費としてしか評価されないからだろうか。
経営と現場は常に乖離している。経営は現場を重視すると叫びながら、本質的に軽視し続ける。
現場の声を聞いたら、破綻するかのように。
現場発の革新を信じない。
先人曰く「金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上」。技術だけでは残らない。
人が残らねば技術は遺品に過ぎない。
60年前の原発を解体するのに、当時の検討経緯や技術データが不明という。
誰も継承していないのでは。
百年企業ですらこの有様である。
現場軽視のつけは大きい。
技術は常に現場にある。
現場の人はコストではなく、事業を持続させる最大の資産であ
人が全てである。
しかし老兵の声は届かない、消え去るのみである。


 長らく駄文にお付合い頂きありがとうございました。
これにて。



サイエンスライター 古井 サブロウ
この記事は2010/3/16の電気新聞に掲載されたものです