台風13号(シンラコウ(SINLAKU)・・・柴咲コウはすきでふ)も過ぎ去り(・・・14号ハグピート(HAGPIT)また来てますが・・・)秋本番もあと少し・・・の今日この頃、親愛なるアメーバブロガーのみなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか・・・
ここ数年、偽装・混入が時代のトレンドとなりつつありますが、戦国時代を収斂させ、徳川幕府260年の礎を築いたかの徳川家康公にもこんな噂が・・・・
ときは慶長17年8月19日(1612)、既に齢七十を超えていた家康は、隠居地である駿府城内において、お気に入りの林道春、後藤庄三郎以下心を許した側近たちと時を過ごし、またひどく気が緩んでいたに違いなかったものと思われます。それまで、唯の一度として口にしたことのない昔のことを、思わず、ふっと洩らしてしまったのですた。
「古いことじゃが、わしの幼少の頃、又右衛門某と言う者がおってのう、わしを、銭五百貫で売り飛ばしおって、えらい苦労をしたものじゃ」
一座に居合わせた者は、この言葉が一体何を意味するのか了解し得なかった事、勿論でありますた。みんな、しばらくは、ぽかんとしていますたが、暫く、林道春が、「上様、それは何時頃、いずれの地のことでございます」と、恐る恐る訪ねると家康は「そうだな、九つか十くらいかのお、この駿府でじゃが・・」と言いかけて、ハッと気が付くと、慌てて話を逸らせてしまったのですた。その様子がやや異常と思われるほど不自然であったので、それ以上押し返して問い返すだけの勇気を持つ者はいませんですた。しかし、不審に思ったことは確かです。幼少の頃、家康が駿府に質子となっていたことは、その場にいた凡ての者が知っていますたが、又右衛門某の五百貫で売られたというのは初耳でした。道春は、後になって『駿府記』を著した時、理解し難いままに、家康の話をそのまま記録し、且つ「諸人伺候、皆これを聞く」と付記して、証人の存在を暗示しておいたのです。
・・・ということなんですが、何故かこの奇怪な数行の記述は、その後誰にも怪しまれることなく、三百年を経過、明治になって初めて融軒(教育職役人)村岡素一郎氏の鋭い目にとまり、徹底的な踏査を実施、その著書『史疑』(民友社、その後明治政府某筋の圧力により廃刊、氏もこれがもとで免職)をもって「幼にして今川家の質子となって辛酸をなめたという松平竹千代と、若干十九歳で今川家の先鋒として大高城を救った松平元康と、信長の盟友として姉川に戦い、豊臣に代わって天下の覇権を握った徳川家康なる人物と・・・この三人は全く別個の人物であり、家康なる者は簓者の私生児であり、松平家と何の血縁もなき願人坊主の後身である」と発表したのです。
家康公については、その出自にも没年にも諸説ありますが、大阪府堺市の南宗寺にも墓所(写真上)があり、嫡男秀忠墓参の記録が残っています。寺伝によりますと、家康公は後藤又兵衛(黒田如水・長政親子に仕えるが、自らの力量に恃み豊臣方に合力。出自は、三木城家老後藤将監基国の嫡子と伝わっています。有名な三木城干殺しといわれる秀吉(竹中半兵衛重治)の城攻めにより、落城直前に黒田如水が後藤基国との友誼により助命、秀吉も目をかけたといわれます)に討ち取られたとあります。
”歴史は勝者の都合によって語られる”また”中立的な人間がいないのと同様に中立的な歴史もない”・・・などともうしますが、当時の真相は残念ながらわからず、さまざまな可能性に思いを馳せるほかありませんね・・・・・
しっかしぃ~ 今回の米騒動・・・・・事故米? 毒米?(表現がネガティブすぐる・・・)
「日刊ゲンダイ」(2008年09月16日)によりますと、
毒入り米の元凶はやっぱり■泉改革だった
■泉政権は04年4月、国内の米作り農家の競争力をつけるという名目で、米の販売・流通を自由化する食糧法の大幅改正を行った。関税の引き下げを求める外圧が背後にあったのは言うまでもない。この法改正では米販売業者の規制緩和も行われた。それまで登録制だったのが、届け出ただけで販売可能になり、これがインチキ業者を蔓延させる原因になった。問題になった三重県の「ノノガキ穀販」も規制緩和後の参入組だ。総裁選の立候補者は汚染米について他人事みたいに語っているが、5人とも■泉内閣の閣僚だったから・・・・(以下過激なため略)」
・・・・・食の問題は生命にも関わる重大事! どうか歴史に埋没させることなく再発防止に万全を期していただきたいものです。この道はいついか来た道・・・・・
さて、メインストリームメディアの真相報道はいかに?



