月江寺


     (写真;天王寺砦跡(大阪市天王寺区生玉寺町、月江寺))

〝信長、鑓をおっ取りて、素破かかれと仰せらる〟(信長公記)・・・この戦場描写の一節は、このときの信長の勇姿を間近に見るかの如く伝えています。


信長


 ということで、信長の戦歴の中でも、桶狭間に匹敵するといわれる大難戦、石山本願寺との間で繰り広げられた天王寺砦における攻防のお話です。天正四年五月、織田勢は三好康長と根来衆・和泉衆、原田直政率いる大和衆・山城衆という陣容をもって、本願寺勢の守る木津へ攻め寄せました。ときに本願寺勢の闘志凄まじく、一万もの一揆勢が織田勢を逆に押し囲んで数千挺の鉄砲をもって撃ち立ててきたのです。このため織田勢は一挙に崩れ、やがて敵の猛攻に曝されることとなりました。原田直政をはじめ、塙喜三郎・塙小七郎・蓑浦無右衛門・丹羽小四郎といった面々が一同に枕を並べて討死を遂げたのです。勝ちに乗じた一揆勢は天王寺砦まで追撃、佐久間信栄・明智光秀・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らの織田勢三千を一万五千もの兵力で取り囲みました。このとき、京にあった信長は、一鞭河内へ疾駆し、即座に決意しました。「然りといえども五、三日をも拘へ難きの旨度々注進候間攻め殺させ候ては、都鄙の口難、御無念の由」(信長公記)と、辛うじて集まった三千余りの軍勢で敵に向かったのでした。〝信長、鑓をおっ取りて、素破かかれと仰せらる〟この有名な戦場描写の一節は、このときの信長の勇姿を間近に見るかの如く伝えています。このあと、敵の寸隙を掻き分け掻き分け天王寺砦にたどり着いた信長主従は、すでに玉砕を覚悟の光秀ら敗軍の残兵との合体を果たします。


光秀


 感泣に咽ぶことしきりの、明智日向をはじめとする敗軍の士気が一気の高まったことはいうまでもありません。このあと、続々と参集する織田の軍勢を見た信長は再び即座に決意します。「この砦は光秀に任す。軍列は直ちに本願寺に攻めかかるぞ」・・・惨憺たる敗北のあとの信長の言葉に、歴戦の諸将は仰天してしまいます。これまで、石山寺の堅固な城砦に立て籠もり、決して出ることのなかった本願寺勢は、勝利に驕り野戦に打って出ている・・・これを勝機と捉えた信長の戦略眼は、流石というほかありません。果然、撤収中の本願寺勢を信長は先陣の卒伍にうち混じり、本願寺城門前まで追撃しました。先年大納言に任官した信長の、この捨て身の突撃に並居る将領は奮い立ちました。意表を衝かれた本願寺勢は狼狽極み、総崩れとなり二千七百もの犠牲を出したのです。

 天王寺砦のあった月江寺付近は閑静な寺院の密集する地域です。最寄り駅は地下鉄谷町線夕陽丘四天王寺前。先日ブログでご紹介しました”愛染堂”とは<目>と<鼻・>・・いぇっ、そんな近くはありませんが、徒歩5分くらいです。また、大阪夏の陣で徳川家康の本陣跡(茶臼山)もすぐ近くです。

  ということで、きょうは"天王寺砦”のおはなしでした。      ・・・おしまい・・・


月江寺


天王寺砦跡