私が勤めている会社では、1年目社員が毎日メルマガを出しています。
もうすぐ丸5年になりますが、代々受け継いで、1日も休まずに発行している姿勢に好感を持っています。
まだ20代前半であろう担当者が、今日次のような記事を投稿しました。よく書けていると思い、皆さんにもお知らせしたく、ここで紹介します。
□「終戦記念日」
本日、8月15日は62回目の終戦記念日です。62年前の今日、日本はポツダム宣言を受諾、連合国に無条件降伏しました。
ポツダム宣言発表前日の7月25日、「8月3日以降、順番を問わず小倉、長崎、広島、新潟のどこかに原爆を投下せよ」との命令が出されていました。
ポツダム宣言に対して日本政府は正式に回答しませんでした。日本はまだ、米軍が本土に上陸した場合いかに戦うか、そのことで頭がいっぱいでした。沖縄まで進出した米軍は、11月1日を期して南九州上陸作戦の準備に余念がなく、それを指揮するマッカーサー元帥にも原爆投下は直前まで秘密にされていました。
テニアン島を出撃したB29エノラ・ゲイ号が広島市上空に原爆(ウラン型)を投下し、炸裂したのは8月6日午前8時15分。閃光と同時に熱線が襲い、衝撃波と爆風が市街をかけめぐり、キノコ雲が空高く上がり、それはやがてゆっくりと降下して黒い雨を降らせました。木造家屋は一瞬にして炎上焼失、鉄筋の建物も倒壊。瞬時に数万名が死亡、被爆した多くが皮膚を焼かれ、頭髪を削がれました。それは、人類が初めて体験した死の放射能による影響でした。その年の12月末までの死者は約20万(最高値は22万7000名)に達したと推定されています。
日本政府はその“ピカドン”を新型爆弾と発表したが、日本陸海軍でも原爆開発をしており、それが原子爆弾であることはすぐ悟っていました。
8月9日午前11時2分、B29ボックス・カー号から長崎市浦上地区に2発目の原爆(プルトニウム型)が投下。最初は福岡県小倉市(現北九州市の一部)に投下する予定でした。しかし、雲が多く命令どおりに目視投下できず、第二目標であった長崎への投下となりました。長崎の原爆による死者は7万3800名と推定され、浦上地区は広島と同じく、瓦礫の山と化しました。
長崎に原爆が投下された日、ソ連軍が満州国(中国東北地方に建設された日本の旧植民地)に侵入。原爆投下とソ連侵攻が直接の引き金になり、日本はポツダム宣言を受諾、8月15日に無条件降伏しました。
広島では、8月6日午前8時15分と8月15日正午に街中にサイレンが鳴ります。観光客や帰省客には、突然のサイレンの意味が分からず驚く人もいます。しかし、その傍らで静かに黙祷を捧げるお年寄り姿も確かにあります。終戦記念日がもう62回目と捉えるべきか、まだ62回目と捉えるべきか様々な思いがあると思います。しかし、戦争経験者が確実に減っていっている今、戦争についてもう少し耳を傾ける時なのかもしれません。
私も黙祷を捧げたいと思います。