こんなようなことを書くきっかけとなった事、それは「あまりにもヒマ」だからである。
入院の原因は網膜剥離だが、術式によっては硝子体を取り除き、代わりにガスを入れるそうで、そのガスで網膜を押しつけるため数日間うつぶせ寝を続けるという、修行のような生活が待っている。
昼も夜も。
トイレのときもうつ伏せ気味、食事の時もうつ伏せ気味、とただひたすら・・。

うつ伏せで寝ていると、ほんとにヒマである。
四国八十八箇所を歩いて回ったときも、歩きながらやることないなと感じたが、今回は景色さえ見れない。
頭の中での空想世界か妄想世界のみである。

で、病院でちょっと変わった体験があったので、そういえば新入社員として関東地方に出てきて入った寮もなかなか、と思い出したのが書くきっかけとなった次第である。

寮はかなり古く、平成に入って間もない頃でもボロボロであった(我々が一年居て、次の期が出た頃に老朽化のため廃寮となった)。
街道から細道を入っていくと、左手に教室棟が見えてきて、突き当たりが玄関棟の入り口である。教室棟と玄関棟はL字型に並んでいた。玄関棟は4階建て、教室館は5階建て。玄関棟でスリッパに履き替え、後はすべて建物内の内廊下となる。
居住できるスペースは教室棟は2階と3階。玄関棟1~4階だが、1階に寮母の居住スペースがあったため部屋数が少なかった。
居住スペースの階には共同のトイレ、共同の洗面所と洗濯場があった。
教室棟は4階5階が教室だったらしく、昔はここで講義も行われていたらしい。
玄関棟と教室棟は1階は外部の扉(ここだけ内廊下ではない)で、2階と3階は渡り廊下で繋がれていた。おそらく後付けなのだろう、若干段差があった。渡り廊下部分の玄関棟側にも部屋はあった。
4階には渡り廊下はなかった。
風呂は教室棟の1Fに大浴場がひとつ。昔は食堂もあったらしく、厨房は閉鎖されていたが食事スペースと思われる箇所は談話室として開放されていた。

居住スペースはほぼ一部屋六畳間で、例外的に2部屋ぶち抜いた部屋、二段ベッドが複数置かれている部屋、が一つずつくらいあった。
木製の作り付けのロッカーが3つあったことからも3人部屋だったのだろう。元はどこかの電機メーカーが女子寮として使っていたらしい。
我々の期はその建物全体が男子寮で、その六畳間を一人で使用していた。二期上の先輩たちは二人部屋として使っていたとか。男女混合の寮だったそうだが、棟で男女を分けていたそうだ。棟の間には大きな扉が開きっぱなしであったが、当時は閉じられていたのだろう。
 

さて、説明が長くなってしまったが、ここの寮ではいろいろ話は聞いたが、よく覚えているのは以下のもの。

・閉鎖されている厨房から赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
・風呂に行こうと階段を降りていると、ハイヒールで階段を上がる音とすれ違う。
・部屋の中で白い人魂のようなものが天井あたりを回る。
くらいか。
印象的なのはにはそこが元は女子寮の3人部屋と知らなかった友達の部屋でキーボードといギターで軽くセッションし、休憩しているときに
・この前、うとうとしてたら女の子同士の会話が聞こえてきた。家に手紙書いた?とか3人くらいの会話がはっきり聞こえたように思うのだが、なんだったんだろう?夢かな?
と訪ねられたので、女子寮で3人部屋だったことを知らせたら相当怖がっていた。

これはすべて教室棟の話である。

次回は私が住んでいた玄関棟4階での話を書いてみる。