【本稿は震災後、数日間のタムラの記憶をもとに構成したものです。時勢は流れに沿って書いてるので、必ずしも一致してません。現在形、過去形が入り混じっていて少々混乱があるかもしれませんが、ご了承ください。遡って1から読んでいただけたらと。】
5.大阪 2日目
旅について、あまりなんの予定も決めてはいませんでした。すぐ帰ってもいいし、もしかしたら、しばらく帰れないかもとも。まだまだ原発の様子がまったくよくわからない状況だったし、なにより、なんとなく関東に戻りたくない恐怖感も。
兎に角、大阪の友人からはなにがあるかわからんから、暫く滞在できるくらいの荷物持ってこいといわれ、大荷物を抱えてきてました。
酔い覚ましに朝行った心斎橋の銭湯。そこで見たテレビでは学者とタレントががやがややってます。みんな、自分の中の混乱を必死に押さえつけようとしてるように見えます。でもそれもテレビの中での非日常だとしか見えなかった。
まぁひとっ風呂浴びて、さっぱり。grafへ向かいました。
ほんとにふらりと訪ねてしまい、スタッフみんな驚きの顔。まぁそりゃそうだ。すいません。みんな。それでも、知った顔のみんなを見て、安心して泣きそうになってたのだよ。
実は前の日、graf代表の服部さんとの電話でD&DEPARTMENTでトークショーがあるからそこで益子の状況を話せへん?と。もともとナガオカケンメイさんのアテンドでランドスケープデザインの中原慎一郎さんと服部さんの対談が企画されてたよう。トークショーは翌日。
自分に何が話せるか全く疑問だったし、
なんの資料も持ってない。それでもなにか伝えないととわけの分からんテンション。
ひたすら益子の仲間に写真送ってと電話で話す。大阪でトークショーとかナガオカさんがとかまるでわけの分からん電話だったろうけど、ともかく集まってくる写真はどこかで見た光景だけど、でもそれは自分の知ってる風景ではなく、歪に破壊された光景。
破片の集積所も日に日に増えていってるよう。電話越しに「今日は濱田さんのあった」と少しの空の喜び。
その場にいない自分、鼻の奥がつんとくる。あんな状況で写真撮って送ってくれた益子のみんなに感謝です。
写真を見返して改めて感じます。やはり益子は被災地です。
自分は秋田で1983年の日本海中部地震を経験してるとはいえ、3.11以前、自分がこういった被災の当事者になるとはまるで考えてなかった。しかも夏には秋田に戻ることを決めていたそのタイミングで。自分が益子にいられるのは長くて半年。その間に何ができるか?これら写真にはその事実を突きつけられてるような気分がした。
この日、夜みんなで食べたけどなんだか、良く分からなくて、ひたすら次の日に向けて準備。
この日は墜落するよに睡眠。
つづく。
written by tebokehand