
[ 不老不死の薬あったら、飲む?飲まない? ]
今週の風のガーデンはなんだか見ていてほろりときてしまいました。
大切な人の死に係わらなかったもの、
己の死が迫るのをそっと待っているもの、
天使に死んだものの行くへを聞くもの、
死とは遠いものだと思っているもの、
死が近いにもかかわらずを笑いながら昔の仲間とふざけあうもの、
大切な人の死を知ってしまったもの、
仕事を終えて死を迎えたもの…
このドラマを見ていて、改めて死の不思議さを考えさせられてしまいます。
あんなに元気だったのに、
あんなに立派だったのに、
あんな人だったけれど…
僕はきっと不老不死の薬は飲まないでしょうね。
確かに歳をとらずに、死にもしないで数百年後の世界を見ると言うことも面白いかもしれません。
仕事だって自分のやりたいものをとことん出来る。
仕事をしてお金を稼げば、新たな大学に入り、新たな仕事を手にすることが出来て面白いかもしれません。
よし次は警察官になろうかなとか、シェフなんてのも面白そうだとか、せっかくだから教師になって人生論を述べてみようかとか。
よくいつまでも生きていても、家族はいつか亡くなり、友人も亡くなる、なんていいます。しかし、友達は場所も変われば新たに出会える、恋人だって、子どもだって。
でも…悲しいのは、様々な人の死を他の人の何倍も体験してしまうこと。
そして、死ぬというその先の未来を一生をかけても見つけられないこと。
死とはそこで終わり、これは僕の持論であり、天国や地獄などというものは信じていませんが、しかしそれでも死んだ先のことは考えてしまいます。
そこで終わりではあるが、では終わりとは何なのか。
案外終わりと言うものの明確なものはほとんどなく、
ケーキを食べれば終わってしまうが、新たに買えばまた食べられる。
路地を曲がって行き着く先が家でも、そこを折り返せばまた道は続く。
昨日は戻ってこないが、昨日の写真はここにはある。
でも生き物の死と時間だけはほぼ明確な終わりがある。
確かに思い出とお線香の匂いは忘れない限りのこり続けるが、それは他者の介入であり、当人からすれば終わってしまっている。
死とはやはり不思議です。
死と言うものは恐怖である。けれども経験しなくてはいけないものでもある。
死という恐怖の反面に生きることのエネルギーがあるはずだから。
それに…
その先に何があるのかは、亡くなった本人にしかわからないのだから…
織田信長は自動車に乗らずに死んだ、
徳川家康はパソコンを触らないまま死んだ、
豊臣秀吉はコーラを飲まずに死んだ、
僕はおそらく宇宙に行かないまま死んでしまう。
この先新たな電化製品も、食べ物も、ずっと遠くの世界も当たり前になるときがくるかもしれません。
それをこの目で見れないのは非常に残念ではある。
残念ではあるが…後悔は無いんじゃないかな?
だって一生のうちに経験できることは少ないけれど、全てを経験できないから面白いこともあると思う。
知らないから楽しい、知らないから頑張れる、知らないから…
ふぅ…
ただ…老いを知らない不老というのは…少々捨てがたい。