◆有馬晴信公没後400年記念祭◆が行われました.。o○。 | あたし、モモちゃんです(^-^) part2

あたし、モモちゃんです(^-^) part2

●シーズーのひとり言 《 あたし(モモ)のことと、パパのことで~す(^^)v 》。

「有馬晴信公没後400年記念祭」 が行われました。

日 時:平成24年5月6日(日)
場 所:「有馬晴信謫居の跡」記念碑前(山梨県甲州市大和町初鹿野1924)

● 式 典 (有馬晴信謫居跡にて)

交流会出席者80名余のほか、地域内外より30名余が集まりました。

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11:00 開会
 聖歌「今日こそ神が造られた日」

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 司会が開会を告げて、これから記念祭が始まろうというとき、とつぜん空から大粒の雨が降ってきました。

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 南の山の空に黒雲がわき起こり、雷鳴がとどろき、雨は霰と変わって地面に叩きつけます。参列者は傘をさし、テントの中に身を寄せ合い、あるいは濡れながら、記念祭は始められました。

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 どしゃ降りの中、電子オルガンの演奏が流れます。人々が開会の歌「今日こそ神が造られた日」を歌います。そして神父が記念碑前で祈りをささげると、…

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 すると不思議なことに、雨は急にやんで、あたりには陽の光さえ差してきました。
 この激しい雨と急激な空の変化…参列者たちは口々に、有馬晴信公が記念祭を喜んで流した涙なのではないか、と言います。晴信公がこの地で斬首されたときも、激しい雨が降ったと言われています。
(さながら400年前、そのときの天候を再現しているようです。驚きました!)

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11:10 祈り 聖パウロ修道会・山内神父
 献香、潅水

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 焼香 有馬家27代当主・有馬匡澄さんとお姉様ご夫妻 ジュスタ夫人菊亭家ご子孫・志賀賢子さんとお二人のお嬢様 有馬家の位牌を守ってきた有賀家ご夫妻 研究者・清水紘一先生 甲州市教育長 丸林区区長 千々石ミゲルご子孫・宮崎栄一さん 中浦ジュリアンご子孫・小佐々学さん

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11:20 晴信公事績紹介 司会
 晴信公は永禄年間・1560年代に生まれました。九州肥前国(現在の長崎県)有馬の日野江城主であった天正8年(1580年)、キリシタンの洗礼を受けました。キリシタン宗門を保護し、領内にはセミナリオを設立するなど西洋文化、学問が花開きました。また、南蛮貿易にも力を注ぎ、領内の繁栄をもたらしました。天正10年には大村純忠、大友宗麟と共に「天正少年使節団」をローマに派遣。武将としては、文禄・慶長の役での活躍、関が原での活躍など大きな足跡を残しましたが、慶長17年(1612年)、謎の多い岡本大八事件によって甲斐の国に流罪となり、この地で処刑されました。
 晴信公は歴史上の人物として特にキリシタン史の中では欠かせない人物です。そして幕府の宗教弾圧の激化と軌を一にして歴史の表舞台から去ることになった、まさに栄光と悲劇の大名であったと思います。

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 四百年前の今日、晴信公がこの初鹿野でどのような最期を迎えられたのか。海外に送られたイエズス会の日本報告の中に詳しい記載がございます。その部分を朗読して頂きたいと思います。

晴信公最期の場面朗読

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(有馬晴信の最後の様子については、
 マテウス・デ・コウロスの『1612年の年報書簡』に詳細に描写されている。)

 供花と供物
 供花、丸林区長。供物、有賀家お孫さん

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11:35 贈答式
 終焉の地を四百年守られた有賀家には、1800年頃から、丸岡藩の使者がご命日の頃に裃に袴の正装で献上品を携え、毎年有賀家に参上していたという事でございます。まだキリシタン禁教の時代でした。このならわしは、明治時代にこの地域に大洪水がおき、被災した有賀家にご遠慮され、それ以来途絶えたそうです。本日は四百年目のご命日ということで、そのならわしを再現していただきたいと思います。
 (贈呈)有馬家 から 有賀家 へ  菊亭家 から 有賀家 へ
 (返礼)有賀家 から 有馬家 へ  有賀家 から 菊亭家 へ

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11:40 植樹
 福井県坂井市(旧丸岡藩)の有馬家の菩提寺・高岳寺さまからご寄付がありました。
 有馬様にはカイドウを植樹していただきます。
 その後京都で亡くなられた菊亭ジュスタ夫人は京都の廬山寺に埋葬されております。廬山寺はキキョウで有名なことから、菊亭家様にはキキョウの苗を植えていただきます。

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参加者の紹介 …

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11:50 閉会の歌
 聖歌「ガリラヤの風かおる丘で」

12:00 記念祭終了


記念撮影 (記念碑前で)

とてもなごやかです♪

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シスターたちも(^^)v

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展示品コーナーと謫居跡周辺の見学

(展示コーナー)

南島原市位置図
口之津港、原城、セミナリオ趾、日野江城 の写真
廬山寺参拝のときの写真

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虚空蔵菩薩(栖雲寺・蔵)、晴信木像(台雲寺・蔵)、中浦ジュリアン、紙位牌 の写真
紙位牌(実物)

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(謫居跡周辺の見学)

道祖神場の白供養塔と六地蔵(六十六部が晴信供養のため建てたと言う謂れがある。)

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謫居屋敷跡といわれる今宮大明神は、国道の地下深くに埋没している。

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12:50~13:00 交流会参加者は自然学校へ移動



● 交流会 (甲州市大和自然学校にて)

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(参加者80名余)

午後1:30 開会のことば 甲州市教育長・保坂氏
      乾杯     東海林さん

~昼 食~
食事は、郷土料理の「ほうとう」

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2:00 ゲストのスピーチ 1

有馬匡澄さん……「有馬家の宗教変遷」

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 本日は有馬晴信の没後400年祭にお招きいただきありがとうございました。私・匡澄は昨年12月18日に、有馬家本家の27代目を襲名したばかりです。これを機会に有馬晴信の歴史を研究していきたいと思います。
 晴信は天正少年使節をヨーロッパに送ったことで有名ですが、かつて有馬家の菩提寺は曹洞宗の台雲寺でした。晴信の父・義貞は心のよりどころを求めてキリスト教に入信しましたが、晴信は有馬家の存続のため南蛮貿易を進めることにあったようです。その後菩提寺として、白道寺は浄土宗、高岳寺は天台宗。曽祖父と祖父は神道に改宗して東京谷中に墓をつくりました。そして晴信はキリスト教と、たくさんの宗派を持つめずらしい家です。…
 最後に、この記念祭と交流会を企画された方々には心よりお礼申し上げます。


志賀賢子さん……「菊亭ジュスタと私」

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 私は大学までミッションスクールで教育を受けました。菊亭家は古い家系なので、京都には何ヶ所も墓所がありまして、有馬さまのようにそれぞれに宗派が違いました。…50歳を迎えるころ、すべては神様に計られていていることに気づき受洗しました。
 主人の親戚筋から「聖母の騎士」2004年5月号が届きました。これがジュスタ菊亭との出会いでございます。
「処刑の日、すべての希望を失った晴信だったが、ずっとそばにいた夫人ジュスタの助けを得て、深い信仰を持ってイエスの御受難の朗読を聞き、一生涯の罪の許しを願いながら首を刀にあずけた。夕方にはキリスト教徒として葬ることの許しを得、葬式を得た。静かな雨の中、みんなが尊敬のしるしとして傘も差さず、雨音をパウロやイルマンたちの歌声として聴いていた」
 このことを聞いて、私が洗礼を受けた意味も深いのだと感じました。記念祭に私がキリスト教の信徒として参加できましたのも、ほんとうに幸運で、そして感謝と感動でいっぱいでございます。本日は多くの方にご参加いただき、素晴らしい会となりましたことを心よりお礼申し上げます。


小佐々学さん(中浦家)…「殉教者中浦ジュリアンの列福と、ローマ法王に謁見して」

宮崎栄一さん(千々石家)……「晴信公の正使であった千々石ミゲル」

~コーヒータイム~

2:50 ゲストのスピーチ 2

示車右甫さん(研究者)…「私の晴信像」
宗任雅子さん(研究者)…「岡本大八について」
有賀町子さん(現地家来筋の末裔)…「有賀家の言い伝え」
清水紘一さん(研究者)…「終焉地特定の経緯」
国見登さん(全国かくれキリシタン研究会)…「島原半島を歩いて」
五野井隆史さん(研究者)…「マテウス・デ・コウロス「1612年の年報書簡」」

~歓 談~

「次回は、500年記念祭をぜひしましょう。でも、今日の出席者はだれも参加できませんね」という話で盛り上がりました(;^_^A

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 式典の初めに400年前の天候を再現するように激しい雨が降ったことは、この日のことを強い印象とともにみなさんが記憶することでしょう。

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 栖雲寺(晴信謫居跡より4kmほど上流)蔵の虚空蔵菩薩像は、これまで有馬晴信の肖像画ではないかといわれていましたが、数年前の研究により、最近では景教(ネストリウス教)、あるいはマニ教の聖人画ではないかともいわれています。ただしこの絵画がこの地に存在するゆえんについては、有馬晴信が南蛮貿易で手に入れて、イエスへの信仰の対象としてこの配流地まで持参したという説がもっとも有力です。あるいは栖雲寺開山の業海本浄が帰国時に持ち帰ったものかもしれませんが根拠はありません。
 昭和54年当時の栖雲寺の話によると、有馬晴信の家臣が遺品としてこの寺に託したとのことで、長く秘仏のままでおかれていたといいます。400年前の状況、またこれらの言い伝えなどから、やはりこの仏画は有馬晴信が斬首されるまでたいせつに所持していたと考えられます。栖雲寺は室町期よりこの地の名刹で、家臣衆が晴信の遺品をひそかに収めておくにはふさわしい場所です。

 その他、有馬晴信の埋葬地の特定など、史跡にまつわる今後の研究課題は多くあります。

3:40 山内神父のお話

~歌 「ふるさと」~

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4:00 閉会のことば

 これですべてのプログラムが終わりました。参加者のどなたもが「今日の記念祭に参加して、ほんとうによかった」とおっしゃっていました。

※ それでは、100年後にまたお会いしましょう !(^_-)v




翌日の、記念碑前です。

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また、来年 !(^^)!

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