ゲーテの「ヴィルヘルムマイスターの遍歴時代」を読んだ。
いや~やっと!やっと読み終わったって感じ![]()
「修業時代」の方は、ストーリーが面白くて一気に読み進めたんだけど、遍歴時代の方はストーリー自体がぶつ切りの上に内容が難しくてなかなか進まなかった…。
最初は登場人物たちの一語一語をどういう意味なんだろう…って考えながら読んでたんだけど、これじゃいつまで経っても終わらんということに気付き、最後はとりあえず文章を目で追ったって感じ…。
この作品、ゲーテの老年時代の作品だから、ゲーテの精神がもう高みへ行き過ぎちゃってるのか、とても凡人には理解できない…![]()
稚拙な読み方ながら、とりあえず読書記録を…。
作品全体を貫くテーマになってるのが、「諦念」。
大雑把に分けると、人間として成長した人はこの作中で「諦念の人」とされ、未熟な人はまだ諦念に到ってないとされる。
諦念って、字からすると「諦めた人」みたいな後ろ向きなイメージがある。
諸行無常は世のことわり~
みたいな。
でも、この作品で説く「諦念」は、そういう世の中捨てたような人のことではない。
上手くいえないんだけど、自分の欲望とか、心の弱さを意志の力で克服した人っていう感じ。
後書きの訳者解説より抜粋↓
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ここで考えている諦念とは、ほしいままにすることを求めぬことである。沸き立つ情熱を抑制して理知の命ずるところに従うのも諦念なら、いろいろの利権、所有などを捨てるのも諦念である。
しかしこのような抑制と局限のみを生活の指導理念とするなら、そこには何らの発展も望みえない。
だから、諦念のこういう消極性の背後には、それの積極性が生きてこなくてはならない。
多方面に散逸する力を積極的に集中して、人生、社会の幸福増進のためにこそ存するのである。
諦念は決して無為をいみすべきではない。
ゲーテが勤労、活動をもって「遍歴時代」の第二の根本思想としたのは全くこのこころに出るものである。
編中の多くの人物は、あるいは恋愛を断念し、あるいは所有を放棄し、あるいは特殊権益をなげうっているけれども、そのために隠退したり、生活力を失ったりしている者はほとんど見当たらない。
みなそれぞれの制約の中にあって、活動と勤労を続けているのである。
そしてそれは結局その人自身のためにも、社会、共同体のためにもなっているのである。
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まさにその通り。
これを読んで私が思い出したのは、「心の師となれども心を師とせざれ」という言葉。
心(=感情)を師匠としてしまうのは一見自由なようで実は不自由。
逆に心を理性で司れる人の方が本当は自由で強い。
例えば私が小学生男子だとして、宿題さぼってゲームやりたいという心に従ってしまったら、一見自由だけども心の奴隷になっている。
ゲームやりたいという欲望に打ち勝って宿題をしたら、それこそ不自由なようで自分の心をきちんと操れる自由な人ということ。
諦念の人っていうのは、まさに理性の力で自分の心を律することができる人のことなのだ。
ただし私が違和感を覚えたのは、この作品だと一度「諦念の人」になってしまうと、まるで人格磨きの試験にクリアーしたかのように、揺るがない人になってしまうこと…。
人間の心は移ろいやすい。
一度自分の弱さに打ち勝っても、またすぐに次の悩みや弱さが出てくる。
それと間断なく闘っていくことに成長はあると思うのだけど…。
一度打ち勝っただけで、もう揺るがない!なんてことはない…。
というのも最近、まさに私自身が自分の心に従ってしまうか、それとも心を従えるかの瀬戸際にあった。
感情では流されてしまいたかったけど、流されたら自分の弱さに負けることだと、なんとか乗り越えた。
乗り越えたことで自分の弱さに打ち勝てたと思ってるけど、それでも自分の欲望は完全に消滅したわけではなく…未練となって心を惑わせる。
今はその残骸との戦い…。
でもこの継続した自分の弱さとの戦いの中で、人間の心は強く磨かれていくのかなと思ってる。
今この時に「諦念」をテーマにした作品にめぐり合った不思議さよ
ゲーテは本当に偉大な精神の巨人だ。ありがたい…。
さて、長かったヴィルヘルムがやっと終わったので、次はゲーテの自伝「詩と真実」に挑戦。
ゲーテの強さの秘密を探るぞ![]()
おまけ
読んでて思わず笑ってしまった遍歴時代の一節。
“あらゆる泥棒の中で馬鹿が一番始末が悪い。馬鹿どもは、時間と気分と両方を盗むのだから。”
ゲーテかっこいいっ![]()