「ゲーテとの対話」読了~~~~アップ


下巻、最初順調だったのに、途中でずっと前に図書館で予約してた本が届いてしまって、そちらに浮気してたら返却期限ぎりぎりになって焦っちゃった。


いいなって思ったとこ書き写す間もなく、ふせんだけして最後までぶっちぎりで読んだ。


さ、備忘録備忘録。


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(ファウスト二部を完成させたとき)

これからの余生、私はもう純粋の贈り物であると考える。これから何をしようと今は全然気にならない。

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ファウストを完成させることをゲーテは生涯の使命だと考えていたことが分かる一文。


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詩人も人間として市民として彼の祖国を愛するだろう。しかしながら、彼の詩作力と詩的活動の祖国は善であり、高貴であり、美である。決して特殊な州国に限られたものではない。


いったい、祖国を愛するとはいかなる意味か。愛国的活動とは何か。ある詩人が一生の間、呪わしい偏見と戦い、狭隘なるかずかずの見解を克服し、国民の知能を啓発し、その趣味を浄化し、志向や思考の途を高めたとすれば、これ以上何をせよというのか。

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くだらぬ話はよそう。ばかげた事を論じてると、自分もばかげてくるからね。

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戯曲作家であって、もしその人が優秀な人であるならば、シェークスピアを無視するわけにはいかない。

必ずやこの研究にあたるだろう。しかしながら、これを見ると、シェークスピアは人間の本質全体をあらゆる角度から、しかもその深淵をも絶てんをもすでに描き尽くしているので、結局、自分という後来者にとってはもはや何一つ手を加えるべきものが残っていないことに気付かざるを得ないだろう。

誰にせよ、もし、すでに前にあったものが、かくも限りなく不可達なまでに卓抜したものであることを厳粛に認識し、自覚したとしたならば、ただ筆を執るだけの勇気すらどこに求めていいだろうか。


実際私にしても50年前のわが愛するドイツに生まれたからよかったのだ。(略)

もし私が英国人として生まれたとすればどうであったろうか、

そして、あの多様なすべての傑作が年端もいかぬ目覚めかけたばかりの私にあらゆる力をもって迫ってきたとすればどうであろうか。私はそれに圧倒されて、どうしていいかわからなかったであろう。こんなにらくらくと元気よく前進してくることも出来なかったろうし、必ずや、はじめの長い間は考え込んで、辺りを見回し、どこか新しい出口はないかと探したに違いなかろう。

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(ヴェルテルについて)

これを出版して以来、私はほんの一回読み返しただけだ。そして、再読しないようにしている。

これは狼煙そのままである。これに接することは恐ろしい。そして、そこに醸し出されている熱情的な状態に、再び取り付かれるのを恐れる。

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このゲーテの感性がすごい…。


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われわれは同時代者よりや、同時代の競争者を探求するよりも、いく世紀以来、変わること無い価値と名声を保ち続けてきた往古の偉人につくべきである。真に優れた資質の人ならば、こういわなくとも自らこの要求を感じるだろう。偉大なる先行者と交わらんとするこの要求こそ優れた稟性の証である。

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美術家は自然に対して二様の関係を持っている。その主であると同時に、奴隷である。他に分かってもらおうとして常套の手段をもって働く範囲にあっては奴隷である。

しかしながら、この常套の手段を自分の高い意図に随え、これに使役せしめる限りはその主君である。

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ある才能が迅速に快く発達できるためには、多くの知能と優れた教養とが国民の間に流布していることである。

私たちは古代ギリシャ人の悲劇に驚く。とはいえ、よく考えてみると、私たちが驚いているのは一人ひとりの著者ではなく、それよりもむしろ、その著者たちにそれを書かせたその時代とその国民なのである。

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今後はもっと勇気を出したらよかろう。

感銘には身を委せ、楽しいときには悦び、感動には従順になって、自分を高めていくことだ。

その上、教わることを恥じず、そして偉大なるものへと激励され鼓舞されることだ。

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私は単に君主であるというだけで、立派な人間性も人間価値をも宿していないような方には格別の敬意を払わない。

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ある人が多量の作品や行動を齎したからといって、必ずしも、これを生産的な人間であるとはいえない。

文学界にも、詩集を次々と出版するので、たいへん生産的であると思い込まれてる詩人がいる。

しかしながら、わたしの考えを持ってすれば、こうした人たちは極度に非生産的であるといえる。

なぜなら、彼らの作りなしたものは生命もなく永続性も持たないのであるから。

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外部世界の素材を引き寄せ、これをわれわれの高い目的に用いこなす力量と性向とを持たずして、いったい、どうして立派な仕事ができよう。

私は長い生涯の間、ともかく、誇るにたるさまざまなことを為し、実現したといって間違いがない。

しかしながら、正直に言って、本当に自分のものであるといえるものはなんであろうか、観ること、聴くこと、識別し、選択すること。

そしてその観たところのものと聴いたところのものに多少の精神を与えて、生命化し、いくらか巧妙に再現する能力と性向、このほかに私に何があったか。

私は自分の作品を決して自分の知能のみに負うてるとは思わない。

これは私に材料を提供した私以外の幾千の事物や人物のお陰である(略)

私は他人が私のために種まいてくれたところのものを手に取り、刈り取る以外には何もすることがなかったのだ。

(略)

肝心な点は、偉大なる意思を持っているか、そして、これを実現する技量と忍耐とを持っているかである。

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