まだ読み終えられないエッカーマン「ゲーテとの対話(上)」より。備忘録。
赤は私の独り言。
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誰でも歌を習おうとする際には、自分の喉に得意の音は全て自然に安易に出来る。
けれども、自分の喉にないほかの音ははじめはひどく難しい。
けれども、歌手となるにはこれにうち勝たねばならぬ。
そしてどんな音をも自由にしなければならない。
詩人もちょうどこれと同じだ。
単に貧しい主観的な感情のみを表白してるのでは詩人の名に値しない。
しかしながら、この世界を自己の掌中に握り、これを言葉に表し得てこそ詩人である。
そして、こうなれば行き詰まりもなく絶えず新鮮でいられる。
けれども、こに反して主観性にとどまる場合は、わずかな心のたくわえもすぐに吐き尽くしてしまって、結局マンネリズムとなり破滅してしまう。
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(ある若い画家の肖像画をみて)
一見してこの若者は才能があるとわかる。
けれども、この人が独力で修業したからといって褒めたことではない。これはいけないことだ。
才能があるからといって安んじて自分だけに頼ってないで、立派な芸術に接するとか、良い師に就くとかして自分を一廉の者にしなければならない。
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偉大な業績を残した人ほど、謙虚に先人からものを学んでるな。
土台なくして建物が建たないのと同じことだ。
功を焦る凡人ほど、土台もないのにその上に真新しい物を作ろうと躍起になる。
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(ある作家の作品をみて)
その書き振りを見ると詩人達はみんな病みついてしまい、全世界が病院でもあるかのように思える。
みながみなこの世は苦しいだとか悲しいとかあの世は愉しいとか言っている。
それに、いい加減一人ひとりが不満げなのに、なおいっそうの不満を他人にまで煽っている。
これは正しく文学の誤用である。
文学とは本来、人生に起こるつまらない争いを宥め、人々をしてこの世界とその境遇とを満足に思わせるためのものだ。
しかしながら、現在の世代はあらゆる真正な力を恐れ、ただ、弱々しいものに取り縋ってこれに親しみ、これを詩的であると考える。
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この後にゲーテは、こういう作品のことを“病院文学”と名づけたいって言ってる…。
病院文学…(笑)
ゲーテにしろベートーベンにしろ、人類に希望を送ろうという使命感に立ってる人の作品だから、人の心を打つのかな。
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真理は絶えず繰り返されなければならない。
私たちの周囲には迷蒙が不断に時を得顔にしている。
しかも、それは個人に支持されているばかりではない。
大多数によって口に上される。
新聞や、百貨全書や、大小の学校、至る所この迷蒙が蔓延している。
そして、この迷蒙に味方する方が大部分の人たちには安穏であり気持ちがよく感ぜられるのだ。
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いつの時代も同じだ。
特に今は情報が溢れすぎてる…。
何が真実で何が迷蒙なのか、見極める眼をしっかりと養わなければ…。
読了まであと五分の一くらい。
今月中には下巻も読み終えるぞー。