前から気になっていたのだけど…。
真央ちゃんのSPの後からあちこちで目にする、プルが言ったというコメント。
「プロの俺を一番興奮させたのはアサダだよ。アサダのレベルは人類史上最高にまできている。俺が女だったら勝てないだろうな」
なんだけど…。
捏造じゃないだろうか…![]()
最初に見たのはミクシィだったが、ソースとして貼り付けられていた動画はプルのロシア語のインタビューで、何を言っているのかはさっぱり分からなかったけど、根気強く最初から最後まで耳を澄ませても、「マオ」も「アサダ」も一言も聞き取れなかった。(そもそもあげられていた日付が女子のSPが行われる前だとか)
そもそも真央ちゃんは確かに素晴らしい選手だけど、あのプルが「人類史上最高」とか「俺が女だったら勝てない」とか、たとえリップサービスでも言うかな?と最初から疑問だった。
(真央ちゃんと同い年くらいのときに4-3-2だの4-3-3だの跳んでたプルが…?)
その後あちこちで見かけるけど、ソースを辿っても個人のブログばかりで、信頼できるソースを示してるものが一つもない。
最初だけで立ち消えるかと思いきや、割とフィギュアファンの間では人気あるブログにまで堂々と紹介されていたので「大丈夫なの?」と思った次第…。
プル以外にも、オリンピックでは海外の選手たちのコメントもブログ経由でたくさん日本に流れてきていたけれど、真央ちゃんファンのブログでは、やっぱり真央ちゃんよりの発言ばかり紹介されているので、別に嘘ではないが偏った見方にならないよう注意したい。
ところで、今回の五輪で自分でも肝に銘じたことは、本物を観る目を磨かなくてはいけないということ。
マスコミや評判に流される意見のなんと多いことか…。
一番目の当たりにしたのは、昨シーズンの国別対抗のとき。
真央ちゃんの月の光、それまで散々「地味」とか「インパクトに欠ける」とか言われてたくせに、国別対抗で高得点が出た途端いきなり名プログラム扱い。
去年の「仮面舞踏会」や今季の「鐘」も点数が出るようになってからファンの意見がころっと変わった。
今回の五輪の男子フリーのときは、プルの時間帯はテレビ観戦してる人たちの実況をネットで追いかけていたが(いや普段はちゃんと仕事してるんだけどね…)、プルの演技中は「さすが王者!」だの「すごいエネルギー!」だの肯定的な意見ばかりだったのに、本田君の「全く彼らしからぬジャンプでしたね」と解説が入り、点数が出た途端「全体的に雑だった」だの「調子が悪そうだった」だの意見が一気に翻ったのには思わず苦笑してしまった。
解説が言ってることそのまんまじゃん!っていう…。
そしてプルが採点への不満を述べたときも、「ジャンプの軸がぶれてたし全体的にいまいちだった」「完成度ではライサの方が上だったから銀でも仕方ない」だの散々言ってたくせに、真央ちゃんが大差で負けた途端、大多数の人がまるで前から「プルが金なのが正当」と言ってたかのようにプルを擁護し始めたことにも嬉しいけどちょっと複雑…。
かくいう私もフリーを観たときは「え?全然プルが優勝じゃん」って思ったけど、堂々と書く勇気がなく、「ファンの贔屓目だといわれるかもしれないが…」と弱気な但し書きをつけてしまったけど…(後からストイコの“フィギュアが殺された夜”を読んで、やっぱそうだよね、と勇気をもらって堂々と書くようになったっていう…ああ日本人。笑)
他の人の意見に左右されやすいのは日本に限らず世界共通なんだろうけど、日本は特にそれが顕著。
笑い話で、タイタニックのような場面に遭遇したとき、どうしたら男性を船に残らせることができるかというもので、アメリカ人には「残れば君はヒーローになれる」といい、イギリス人には「紳士はこういうとき残るものだ」といい、そして日本人には「他のみんなもそうしてるよ」といえばいい、というものがあった。
「誰かと意見が一緒なら安心」「みんながいいと言ってるならいいんだろう」という安易な考えは、楽だけど怖い。
自分自身で物事を見極める目がどんどん衰えてしまうから。
そして大多数がそういうスタンスでいる限り、日本には芸術が育たない。
小澤征爾がパリで指揮者コンクールを受けようとしたとき、日本大使館が力を貸してくれなかったのでアメリカの大使館に助力を仰いだという話題を以前に載せたことがあるが、そこで優勝したときも、日本ではおろか日本大使館内ですらほとんど話題にも取り上げてもらえなかったらしい。
その後バーンスタインの弟子となり、日本に凱旋帰国した際、N響の常任指揮者となるが、N響にボイコットされ、傷ついた小澤は「日本では音楽をやらない」と決め、それから30年以上海外を拠点とした。
N響ボイコットに関しては、海外のやり方を押し付けようとした小澤にも非があったようだけど、若くして世界で輝かしい経歴を築きつつあった「若僧」にN響側が含むものもあったようである。
小澤は自伝で、「別に自分のことだから言うわけではないが、もっとこういうこと(=自分がコンクールで優勝したこと)を取り上げて欲しい。日本のような小国は、芸術や文化の部分で大きくなっていかなくてはいけないのに…」と述べている。
その後小澤の世界的活躍は周知の事実だが、日本での知名度は「逆輸入」のようなものだ。
本来なら最初から日本が小澤、小澤と押し出すべきところを、海外で認められてから急に「世界の小澤」と熱狂しだす。
これについても小澤征爾は「音楽は対個人のものであるのに、日本ではすぐ“世界のオザワ”とかね…」と、評判に流されやすい日本人を皮肉っていた。
徒競走なら誰が一等なのか見てれば分かるけど、フィギュアのような採点競技はそうではない。
特に政治的思惑が渦巻いているような人気競技では、こちらがきちんと「良いものを見極める目」「良いものを良いと言い切る勇気」を持たなくては、猫ジャッジの思うツボである。
そして多くのフィギュアファンが痛感したであろうマスコミの恐ろしさ。
五輪での特定の選手への爆アゲを見事に黙殺し(何度も言うけど小塚くんの点数がチャンより低いことを誰か指摘した?)、一方で優勝選手がいかに素晴らしいかをこれでもかと刷り込む。
ジャッジの不透明性は、ここ2~3年、コアなフィギュアファンがブログ等で繰り返し指摘してることであるし、ある程度のファンならもう分かっているけれど、これでもし五輪だけ興味を持ち、媒体がテレビしかないファンならば、採点のおかしさに気づいただろうか?
「完成度が高いからこちらが上」「技と技のつなぎが多いからこちらが上」といわれれば、「そんなものか」と納得してしまっていただろう。
フィギュアに限らず、どれだけの分野でそういった世論操作がなされているのかと思うとぞっとする。
どこもかしこも情報が溢れている現代社会。
99匹が同調して初めて同調する100匹目の猿であってはいけない。
本物を見極める目を養わなくてはいけない。
そんなことを痛感した五輪だった。
(余談だが、私の通っていた大学の目の前には美術館があり、これはうちの大学の創立者が「青年には若いうちから一流に触れさせたい」と併設した美術館だが、学生時代特別展でもない限りあまり行かなかったことを今では後悔している。笑)