この二日間で、小澤征爾に関する本を6冊読んだ。(はまるととことんなオタク気質…)


きっかけは、ある本で紹介されていた「ぼくの音楽武者修行」という、小澤征爾が26歳のときに書いた本。

読んだら面白くて面白くて…。


今まで小澤征爾と言ったら世界的指揮者という位しか知らなかったのだけど、そこにいたるまでの過程がすごい。


高校と短大で指揮法を学び、西洋の音楽を学ぶには西洋だ!と思い立って、なんの宛てもないのにスクーターとギターだけを持って渡仏してしまう。


しかもお金もないので貨物船にのり、スクーターも方々探し回ってある企業に借りたもの。

その企業が貸す条件として出したのが、「このスクーターが日本製であることを示すこと(宣伝効果?)、音楽家であることを示すこと、事故を起こさないこと」の3つ。


それで小澤征爾は約束を忠実に守るために、スクーターに日本国旗をさし、ギターを持ってパリの街を乗り回すのである。


幾ら小澤征爾が男とは言え、紹介状があるわけじゃなし、受け入れる学校も先生もないというのによく家族も快く送り出したものだ。しかも海外旅行が簡単ではなかった50年以上も昔に。


小澤家は彫刻家だの俳優だの民俗学者だのを輩出してる家系なので、きっと個性を大事にのびのび育てる家風があったのだろう。


パリに渡った征爾、ブザンソン国際指揮者コンクールというのがあるのを知り、とりあえず受けてみようと思い立つ。

締切日が過ぎてたので日本大使館に駆け込んで懇願するもあしらわれ、(なぜか)アメリカ大使館経由でお願いして受験を許可されたという。


そこでいきなり優勝。


次の年、タングルウッドの指揮者コンクールにも出場し、優勝。

当時世界に指揮者コンクールはこの2つしかなかったので、そこで立て続けに優勝したことは指揮者としてはかなり華々しいデビューだったことになる。


更にその年、カラヤンの弟子になるための試験を受けて合格。


世界的に有名な指揮者であるミュンシュ、カラヤン、バーンスタインの指導を仰ぐチャンスを手にする。

それから、時に辛酸をなめながらも日本人初の国際的指揮者として世界一流のオケ相手に活躍する。


「ぼくの音楽武者修行」では、征爾が外国から家族に宛てた手紙も掲載されているが、実に飄々としている。


「おやじさんもおふくろさんもみんな元気?」だの「今日はポン(弟)の誕生日だな。オメデトー」だの…。


実際ホームシックにかかったり、病気になったりもしたそうだけれど、文面からは日本人らしからぬ良い意味でのずうずうしさ(笑)というか、開拓精神が伝わってくる。


本を読んだらどんな指揮をするのだろうと興味が湧いて、CDだけでは飽き足らず、ユーチューブで動画を検索してしまった。


2002年のウィーンフィルのニューイヤーコンサートの画像を観たけれど、なんというか、踊るような指揮をする。

征爾の恩師カラヤンは「俺のタクトについてこい!!」という感じのめちゃカリスマチックな指揮に見えるけど、小澤征爾のはまるで音楽に合わせて踊ってるみたい。


もちろんウィーンフィルのは楽しげなワルツなので、曲調で違いはあるんだろうけど…。


小澤征爾をもっと知りたい!と思って濫読した本から、忘れたくない部分をいくつか。


まず、これまた世界的な作曲家、武満徹との対談集「音楽」より。


「音楽はあくまで音楽対個人の関係。みんなにとって一流である必要はない。なのにどうしても日本人は“世界のオザワ”とかすぐ言う」(趣意)


ここを読んで思い出したのは、前にバレエダンサーの熊川哲也がインタビューで、「日本では知名度がある人が出ないとチケットが売れない。知名度がなくても良いダンサーはたくさんいるのに」というようなことを語っていたこと。


熊川哲也はKバレエという自身のカンパニーを主宰しているが、自分が出る公演と出ない公演ではチケットの売れ行きが全然違うことを嘆いていた。


コンクールで1位だったとか、世界的に有名なバレエ団でプリンシパルを勤めていたとか、そういうネームバリューに日本人は惑わされがちだというのだ。


私自身思い当たる節は多々ある。

「みんなが良いと言ってるのだからいいんだろう」と安易に判断してしまうことが多い。


私の好きなフィギュアの話になるけれど、去年の真央ちゃんのSP「月の光」は当初ファンの間でも評判が芳しくなかった。

点数も伸び悩んでいたし、地味だのインパクトにかけるだの散々言われていた。

なのに国別対抗戦で75点という高得点を出した途端、手のひらを返したようにいつの間にか名プログラムとして絶賛されている。


このように、評判に左右されがちなのが日本人の心理。

これって個人より集団を大事にする日本人の気質と関係があるのだろうか。


「これは良いと思う!」と自分の考えを述べるより、まず周りの目を気にして、みんなが良いと言ってるのを聞いて安心して「良い」と言えるという…。


小澤征爾と武満徹が「音楽は対個人」と言い切ってくれて嬉しかった。

私はクラシックは好きだけど、素人なので自分の耳には全然自信がない。


例えば私はアダージョカラヤンの「カノン」が大大大好きだけど、「こういう小曲はカラヤンには不向き」とか書かれてる批評をよむと、「え、そうなの?がーん…私って聴く耳ないのね…」とがっかりしてしまう。

でも音楽が対個人なら、受け取り手によって千差万別。「自分はこれがいい!」と胸を張って言っちゃっていいんだなと思った。

(もちろん明らかに二流三流のものと一流を混同してしまうような見る目の無さで満足してはいけないと思うけれど…。本物を見る目を磨かねば!)


あと、大江健三郎との対談で、武満徹が亡くなったあと、武満徹について語ってる箇所がすごく素敵だったので抜粋。


「星の王子様っていう小説ね。星の王子様っていうのがもし僕の周りにいたとしたら、この2人(武満と彫刻家の藤江孝)は星の王子様みたいな感じだったんじゃないかなぁ。フゥーっと現われて、僕はその2人からうんと影響を受けて、それで、あっと思ったらいなくなっちゃった。

いなくなったことは悲しいけれど、存在は全然いなくならないというのがこの2人なんですね。」(小澤征爾)


「武満さんが亡くなった時、ストルツマンがインタビューに答えてたんです。宇宙に大きい花が咲いてて-どういう形で木があるのかわからないけど-花の木があって、その花房が垂れているように、武満さんの音楽を聴いていると、宇宙のなかに武満さんの花が咲いていることが分かる。という意味のことを言ってたんです」(大江健三郎)


大江健三郎との対談は、ここ以外にも、「全ての音楽はどこか根底に悲しさを秘めている。それは人間がいつか必ず死ぬということを知っているから」とか、興味深い記述がたくさんあった。


小澤征爾。今食道がんの治療中だけど、復帰したらぜひ一度生を聴きに行きたい。


あ、あともう一つ。


小澤征爾のエッセイから、ものすごく共感できる箇所。

「朝。5時と6時の間に、おれの枕元に並んだ目覚まし時計がなる。(中略)寝坊の俺は、世の中全体を呪い、必死の思いで頭を枕から持ち上げる。」


ここ、ここ…。

夜型の私も全く一緒!

朝起きるたびに「なんでこんな早く起きなきゃいけないの」と世の中を呪っている(笑)


明日からまた呪いの朝だ。週末の朝寝坊を楽しみに、明日からまた一週間頑張ろう。