「1999年の夏休み」という映画を観た。
不思議な映画だった。
「トーマの心臓」という漫画がモチーフになっている映画。
登場人物はたったの四人。
全寮制の学校で、夏休み帰省しない3人が寮に残る。
その学校では3ヶ月前に一人の少年(悠)が自殺していて、その死を自分のせいだと思って心を閉ざしている和彦と、和彦を見守るリーダー格の直人、一つ後輩で自分は誰からも相手にされていないと思っている末っ子気質の則夫。
穏やかに暮らす3人の前に、ある日転校生が現われる。死んだはずの悠に瓜二つの薫。
悠に対してそれぞれの複雑な思いを抱える3人と、自分に悠を重ねられることに苛立つ薫が、穏やかだったはずの生活を静かに狂わせていく。
そんな映画。
四人の少年役は全員少女が演じている。則夫役はなんと16歳当時の深津絵里だった…。こりゃびっくり。
しかも深津絵里以外の声は声優を使っている。
それぞれ名前と台詞は少年なんだけど、見た目はどうみても少女。でも少年役。自分の中でその矛盾を消化させようとしていくうちに、なんだか少年でも少女でもないような、すごく中性的なものに見えてきて、4人以外の他者を一切排除した静謐な世界とあいまって、異世界の出来事のような、不思議なものに見えてくる。
(直人役の子と和彦役の子は体つきも顔立ちもすごく女の子っぽくて、正直若干見られない場面がもごもご…だったけど、ふかっちゃん演じる則夫と悠はほんとに少年ぽかった。)
この世界。一石を投じたら全てが壊れてしまうような静かな狂気を孕んだ映画のように思えた。
モチーフの「トーマの心臓」とは、設定は酷似しているけれど、描いている愛の本質は違う気がする。
漫画の場合、トーマ(映画でいう悠)が自殺したのは、ユーリ(映画でいう和彦)のためだった。
ユーリは、自分で自分を永久に赦せないような罪を抱え、善の象徴であったかのようなトーマをあえて遠ざけた。
だからトーマは自殺した。死をもってユーリに赦しを与え、永遠を誓った。
トーマはユーリの抱える罪を具体的に知りはしなかったけれど、ユーリが赦されざる罪を抱えていることに多分気づいていたんだと思う。
死ぬことで、トーマは永遠にユーリの抱えている罪の内容を知ることがなく、ユーリへの愛を示したまま、決して裏切ることもユーリに落胆することもない。ユーリの中で、トーマは永久に自分の罪を知らず、自分を愛してくれた者として生き続ける。そのためにトーマは自分の肉体を投げ出した。
トーマの自殺はユーリへの赦しと愛の象徴だった。(多分…)
でも映画では、悠の自殺は和彦のためではなかった。
単純に、和彦の記憶の中で生き続けたいという自分の欲望のためだった。描き方はきれいだけど若干あてつけ?
和彦は和彦で、悠の思惑通り、自分が悠にした仕打ちのせいで悠を自殺に追いやったと苦しむだけで周りが見えない。
直人は直人で、悠が死んで苦しむ和彦を支えることで和彦を独占できることを喜び、則夫はただ誰かに愛されたいと願うだけの子供。
漫画では自己犠牲を伴う、見守り赦しあう愛だったのが、映画では不器用で利己的な愛のぶつけあいになっていて、それが美しい世界にひそむ不協和音のように狂気を感じさせる。
しかしまあ映像と音楽の美しいこと。
薫が湖のほとりで和彦の首をしめながら、「子供の時間は短い。だから子供のうちに死のう。死んでまた子供に生まれ変わろう。そして子供のうちにまた死んで、また子供に生まれ変わろう。そしてまた死んで、死んだ数だけ生まれ変わろうよ。」というシーンは、残酷で、でも現実感がなくてただただ美しかった。
観てる間、現実から解き放たれて時が止まったようだった。
走り続けることに疲れたとき、観るといいかもしれない。
不思議な映画だった。
「トーマの心臓」という漫画がモチーフになっている映画。
登場人物はたったの四人。
全寮制の学校で、夏休み帰省しない3人が寮に残る。
その学校では3ヶ月前に一人の少年(悠)が自殺していて、その死を自分のせいだと思って心を閉ざしている和彦と、和彦を見守るリーダー格の直人、一つ後輩で自分は誰からも相手にされていないと思っている末っ子気質の則夫。
穏やかに暮らす3人の前に、ある日転校生が現われる。死んだはずの悠に瓜二つの薫。
悠に対してそれぞれの複雑な思いを抱える3人と、自分に悠を重ねられることに苛立つ薫が、穏やかだったはずの生活を静かに狂わせていく。
そんな映画。
四人の少年役は全員少女が演じている。則夫役はなんと16歳当時の深津絵里だった…。こりゃびっくり。
しかも深津絵里以外の声は声優を使っている。
それぞれ名前と台詞は少年なんだけど、見た目はどうみても少女。でも少年役。自分の中でその矛盾を消化させようとしていくうちに、なんだか少年でも少女でもないような、すごく中性的なものに見えてきて、4人以外の他者を一切排除した静謐な世界とあいまって、異世界の出来事のような、不思議なものに見えてくる。
(直人役の子と和彦役の子は体つきも顔立ちもすごく女の子っぽくて、正直若干見られない場面がもごもご…だったけど、ふかっちゃん演じる則夫と悠はほんとに少年ぽかった。)
この世界。一石を投じたら全てが壊れてしまうような静かな狂気を孕んだ映画のように思えた。
モチーフの「トーマの心臓」とは、設定は酷似しているけれど、描いている愛の本質は違う気がする。
漫画の場合、トーマ(映画でいう悠)が自殺したのは、ユーリ(映画でいう和彦)のためだった。
ユーリは、自分で自分を永久に赦せないような罪を抱え、善の象徴であったかのようなトーマをあえて遠ざけた。
だからトーマは自殺した。死をもってユーリに赦しを与え、永遠を誓った。
トーマはユーリの抱える罪を具体的に知りはしなかったけれど、ユーリが赦されざる罪を抱えていることに多分気づいていたんだと思う。
死ぬことで、トーマは永遠にユーリの抱えている罪の内容を知ることがなく、ユーリへの愛を示したまま、決して裏切ることもユーリに落胆することもない。ユーリの中で、トーマは永久に自分の罪を知らず、自分を愛してくれた者として生き続ける。そのためにトーマは自分の肉体を投げ出した。
トーマの自殺はユーリへの赦しと愛の象徴だった。(多分…)
でも映画では、悠の自殺は和彦のためではなかった。
単純に、和彦の記憶の中で生き続けたいという自分の欲望のためだった。描き方はきれいだけど若干あてつけ?
和彦は和彦で、悠の思惑通り、自分が悠にした仕打ちのせいで悠を自殺に追いやったと苦しむだけで周りが見えない。
直人は直人で、悠が死んで苦しむ和彦を支えることで和彦を独占できることを喜び、則夫はただ誰かに愛されたいと願うだけの子供。
漫画では自己犠牲を伴う、見守り赦しあう愛だったのが、映画では不器用で利己的な愛のぶつけあいになっていて、それが美しい世界にひそむ不協和音のように狂気を感じさせる。
しかしまあ映像と音楽の美しいこと。
薫が湖のほとりで和彦の首をしめながら、「子供の時間は短い。だから子供のうちに死のう。死んでまた子供に生まれ変わろう。そして子供のうちにまた死んで、また子供に生まれ変わろう。そしてまた死んで、死んだ数だけ生まれ変わろうよ。」というシーンは、残酷で、でも現実感がなくてただただ美しかった。
観てる間、現実から解き放たれて時が止まったようだった。
走り続けることに疲れたとき、観るといいかもしれない。