中国もアメリカも戦争の時は、国際法を破ってきました。

つまり「反則負け」でした。

 

我が国は、そのような中でもいつの時代も紳士でした。

『真っ直ぐ』だったのです。

画像は、南京を陥落させ入城された時の松井石根陸軍大将です。

 

南京大虐殺事件の責任を問われ巣鴨プリズン内で公務死 

昭和23年(1948年)12月23日

辞世の句

「天地も人もうらみず ひとすじに 無畏を念じて 安らけく逝く」
「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」
「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心」

松井大将は中国人よりも中国を愛した情の厚い方であったそうです。
後にパール判事は松井大将を高く評価されました。


----『「南京事件の総括」虐殺否定の十五の論拠』田中正明 著 より抜粋

松井大将は南京攻略にあたって《南京城攻略要領》を下命し、
南京入城の兵は各師団とも選抜せる歩兵1大隊のみと限定し、

次のような細心の注意を与えている。
抄出すると、
(1)部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし支那軍民をして皇軍の威武に敬仰帰服せしめ
 苟も名誉を毀損するが如き行為の絶無を期するを要す。
(2)別に示す要図に基き外国権益特に外交機関には絶対に接近せざること、
外交団が設定を提議し我軍に拒否せられたる中立地帯(難民区のこと)には
必要の立入を禁し所要の地点に歩哨を配置す、
又城外に於ける中山陵其他革命志士の墓及明孝陵には立入ることを禁ず
(3)掠奪行為をなし又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す、
軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ


 松井大将はこれでもなお安心できず、さらに
自ら筆をとって次のような末端将兵に対する訓戒を重ねて示達した。

「南京は中国の首都である。
之か攻略は世界的事件である故に 真に研究して 日本の名誉を一層発揮し

中国民衆の信頼を増す様にせよ、

特に敵軍と雖も抗戦意志を失いたる者 及一般官民に対しては

寛容慈悲の態度を取り 之を宣撫愛護せよ。」


 この一文は、下士官兵にいたるまで徹底せよと命じた。

---- ココまで 『「南京事件の総括」虐殺否定の十五の論拠』より

◆ 松井石根大将は実績によっても世界の評価を受けておられます。
当時南京安全区国際委員会委員長ドイツ人ラーベからの感謝状
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason05.html
(ラーベは東京裁判に於いては態度を翻し、否定しています)
ジャキーノ神父の感謝(南京以外での出来事)
 昭和12年8月、第2次上海事変が起きた。上海の難民区で30万人のシナ人を
保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞に次のように語った。

『日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、

抗日的態度をとるものもなかった。

私の永い支那生活中、今度くらい

日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。

食料があと二、三日分しかなく、心配していたところ、

松井大将が一万円を寄贈して下され、非常に感謝しているところです。』


------ ココから 『本当の日本の歴史』さんより抜粋

蒋介石総統は、「松井石根」という名を耳にした瞬間、
顔色がさっと変わり、
目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」
手が震え、涙で目を潤ませてこう言うのです。

「南京に大虐殺などありはしない。
ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを、
記録してあるはずです。
私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。
松井閣下は冤罪で処刑されたのです」


と言いながら、涙しつつ田中氏の手を二度三度握り締めたという。
南京は中華民国の首都であり、蒋介石は同国の総統であった。
一国の最高責任者が明言するのであるから、その言に耳を傾けるべきであろう。

------ ココ迄 『本当の日本の歴史』さんより抜粋 

そもそも…
「南京大虐殺」を世界で初めて報じた英字紙記者ティンパーリーは、
国民党にいたコミンテルン(共産主義を拡大する為の国際組織で、スターリンが全てを統括)の宣伝工作員でした。
http://yoshiko-sakurai.jp/2001/12/02/108

全ての先人たちの苦労に報いられるよう、国難を乗り越えて日本を守りたいですね!