過去の恐怖感の受容 | てぃあの解体心書

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~ 自らの人生哲学を語るブログです ~

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さ、昨夜書きかけになっちゃってた方からまとめようかな。


ってな訳で昨日の分を仕上げてしまおう。


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自分に起こったことを軽く見ようとしてんだよネ^^


たいしたことないさって。


たいしたこと大有りなのに・・・。


だって死ぬかもしれないんだよ?





ただね・・・。


その『死ぬかも知れない』という恐怖の中だけで生きたくなくてさ、


だから『死ぬかも』っていう恐怖を感じなくしてすごしたくなっちゃってネ。


ただ最近はその死ぬに対して以前より恐怖がなくなってきてる。


『死ぬ』ってことを沢山考えてきて


結局死ぬまでにどれだけ自分が納得した生き方をして充実した生き方ができるかってことの方が


大切に思えてきたからかな。


だって人間いつかは死ぬ。


それがちょっと推測されてるだけじゃないの?


とも思えてきたり。


だって最悪明日、交通事故で死ぬかも知れないし


ここ数日の奄美のようにいつ災害が襲ってきて逝くのか解らないのだから。。。


ただそうやってずっと構えて生きるのも辛さが伴うことで。


その辛さを乗り越える為に楽しいことや嬉しいことがあるのだと


わたしは思ったりするようになっている。


いつまで生きれるかなんて誰も解らない。


そういう点で病気でない人と変わらないと思えてきた。


誰も想像もしない不慮の事故で逝く可能性は秘めていて


でもわたしは病気というものを抱えているからちょっとその予測がされているだけで。


そう、ちょっ人よりももしたしたらの可能性や体調悪化の予告がされるだけかもって。


そう思えてくるようになってまた色々な恐怖をあまりかんじなくなっていったように思う。


怖いと言うかもう怖かったかなっていった過去形の感情。


でもその過去形となる恐怖すら無きものとしてしまうように


最近のわたしはなって行ってたと思う。


『怖かった』っていう過去の感情を否認しちゃってたのでしょうネ。





でもそこから認めなきゃ、受容しなきゃってことになった。


根は深い。


とにかく深い。


掘れど掘れど多分出てくると思う。


それを生きている限りずっと戒めのようにして


少しづつでも掘り進めなきゃいけないのかもな。


ずっと修行するみたいな感じ^^



ま、たまには日曜日も入れて良いかも知れないけど


でもそこを掘り続け無きゃいけないことは忘れたらいけんだろうな^^