(中学編から続く)

 

入学したときはもちろんやる気満々で200人中100位ぐらいの成績だったのでした。

 

甲陽学院はとても自由な校風で、服装も自由、髪色も自由、勉強してもしなくても自由(つまりしない子はとことん放っておかれる)です。確か赤点をとっても追試すらなかったように思います(もしかしたらあったのかもしれないけど、受けた記憶がないです。つまりマンガであるように、「追試だぞ~!怒」と追い掛け回された記憶はない)。

 

新たにできた友達と遊んだり、三宮(神戸)に服を見に行くのが楽しく(といってもユニクロレベルですが)、自由を謳歌していました。

 

授業の進度はやはり早く、中学生の時のように授業を聞いていた(ボケっと、友達と話したり)私は全然ついていけなくなりました。成績はまさにウナギ下りで、1年後には180位ぐらいまで落ちてしまいました。世界史の試験が4点だったことは覚えています(勉強しない、と決めていたわけじゃなく、ちょっとでも点数取りたくてあがいていたのがこの点数から見て取れますね笑)。

 

特に受験が近いわけでもなかった私は焦りもせず、バイクの免許も取ったり、どうやったら初めての彼女ができるかばかり考えていて、初めての合コン(と言っても喫茶店で女子高の子と数名同士で話す)にガクガク緊張しながら参加したりと、新たに広がった「大人に世界」に夢中でした。(結局20歳になるまで彼女ができなかったことは置いといて・・・)

 

進学校には入ったものの、予想に反して勉強に関しては全くやる気が出ていない息子を見て、母親から「勉強ついていけないんなら、公立の高校に編入する?」と1年生が終わるころに聞かれました。

決して裕福ではなかったうちの家庭からすると、遊んでばかりで成績もどん底に落ちている子供を私立に入れとくのもきつかったのでしょう。

 

恥ずかしながら、その時初めてこの状況は「当たり前」ではなく、「学費を払ってくれている親のおかげ」に気づいたのを覚えています。

「1週間考えさせて」と言い、高校を辞める、という選択肢を頭に置きながら学校に通いました。

 

そういう視点で生活してみると、甲陽学院にいる同級生たちとは話していてとても面白く、話したことない人にも仲良くなりたいなーと思う人は沢山いました。結局母親には、「甲陽に残らせてください」とお願いしました。

 

自分で決めたからには、勉強にやる気が入りそこから成績がウナギ登り・・・とは、現実はうまくはいきませんでした。なんせ進学校に入るような子が1年間(中学からの子は4年間)一生懸命勉強してきたのですから、すぐに追いつけるはずもなく、やる気は出たのに何をしてもいいかわからない状態が続きました。

 

そこで私は1年間アメリカに留学するという暴挙に出たのです。(笑)

 

後編に続く・・・