秀家の流人生活は50年にも及ぶが、妻・豪の実家の前田家から、2年に1回、白米70俵、金子35両、衣類・雑貨・薬品などが送られ続けた。しかし浮田家は7家に分かれ、後には20家にもなったので、生活は楽なものではなかった。日々の暮らしも、磯辺に釣り糸を垂れ、詩歌をたまさか詠むのみで、その他は一切等閑に付し、全くの凡俗に徹して、英俊の片鱗も見せることなく終わったという。
ただ、流罪後何年かして、前田家から徳川と談合して小さくとも一国を領するよう取りはからうとの打診があった折り、秀家は、「私は、かつては豊臣家五大老の一人。いまさら徳川家の禄を食む気はないから、折角のご厚意なれど、この儀だけはお断りしたい。」と、使者を帰したという。彼の一徹さが表れた話も残っている。
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宇喜多秀家の墓
〒100-1401 東京都八丈島八丈町大賀郷
バス停[大脇前]より徒歩3分