景子は、留年ギリギリの状態で遅刻をしながら、学校に行っていました。
以前と、医師は変わらず、全く期待はしていなかったので、眠らない時の薬と、少し気分が楽になる抗不安薬だけくれる人と解釈し、カウンセリングは、時々行けていました。
学校に友達ができて、少し楽しそうになってきました。
色んな経験をした子たちの中とは、比較的気が合ったようです。
それぞれに色んな悩みを抱え、個性的な価値観を持っているように、見えました。
なにより、若い男性教師が担任になり、その方が、愛情いっぱいに接してくれる事が、嬉しくてたまらない様子でした。
機嫌が良い時には、友人の事や先生の事を、楽しそうにして話してくれました。
でも、状況は、あまり変わっていませんでした。時々、笑顔が見れる以外は。
生きててくれれば、いい。私は、ただただそう思うようになっていました。
そして夫は、娘を刺激することを控えるようになってきました。
ケアマネージャーの受験には、二年トライしながらも、こんな事してていいの?そんな気持ちもありましたが、やらずにはいられませんでした。朝4時に起きて勉強し、仕事に行き、家事をしていました。なかなか、厳しかったので、始めて実家の母に手伝いに来てもらいました。
母には、詳しい事情は話していませんでしたから、現状を知って衝撃を受けていました。
数日たって母が、「こんなに大変な時に、笑顔で頑張っててホント偉いね。」と、しみじみと言葉をくれました。
私はその一言を聞いて、もう二度と立ち上がれない脱力のような、雪だるまがとけて影も形もなくなっていく母のその優しい一言で、硬く硬く切れないように必死で張り詰めていた緊張の糸が、なくなりました。
母が帰り、私は、笑えなく喋れなくなりました。
どうにかギリギリ、食事の支度はしていましたが、顔の筋肉が動きません。
手のひらが心臓が体中が、いつの間にか水蒸気になって消えていくようでした。
気づくと、誰も喋らない笑わない真っ暗な食卓だけが、そこにありました。
母は、家庭の中で太陽のような存在なんて、使いふるされた言葉がありますが、これは真実でした。
子どもたちの、あんなに暗い顔と暗い食卓は、今まで見たことがありませんでした。
そうならないように、笑顔でいたのですが、今どうしたら良いのか分かりませんでした。