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とても嬉しいです😃💕
「もっと知りたい!学びたい!」
という強い気持ち(こだわり)があると、
まわりの人があきらめてしまうような
ことでも、
「絶対に自分で納得いく答えを
見つけ出すぞ!」
と、さらに深く突きつめていくことがある。
でも、こだわりすぎるあまり、
まわりが見えなくなり
「これしかない!」
「これが正解なんだ!」
と思い込みすぎることも。
そして、
まわりからの親身なアドバイスが
聞こえなくなったり、
重要なヒントを見落としてしまったりする。
それが私。
視野が狭いけれど、それでも生きている。
天乃です。
私のことについてはこちらからどうぞ
「こうであってほしい」が、どうして苦しいのか
私たちって、
毎日いろんなものに
『執着』していると思う。
「家族には幸せでいてほしい」
「私の気持ちをもっと理解してほしい」
「楽しいこと、嬉しいことだけ感じていたい」
「怪我なく、健康でいたい」
「誰からも好かれてい」
「上手く行ってほしい」
「ほめられたい、チヤホヤされたい」
「お金の不安から解消されたい」
「いつまでも若々しくいたい」
「今の生活を壊したくない」
これって、全部、
「こうであってほしい」
「こうありたい」
気持ちのあらわれだと思うんだよね。
私は「こうなってほしくない」が多かった
うつ病の頃の私は、
「こうなってほしい」
より、
「こうなってほしくない」
が多かった気がする。
また病気になりたくない。
迷惑をかけたくない。
失敗したくない。
惨めな思いはしたくない。
嫌われたくない。
お金がなくて困りたくない。
そのために。
ちゃんとしなきゃ。
元気にならなきゃ。
普通に戻らなきゃ。
でも、人生って、
そんなにこちらの希望通りには
なってくれない。
だから、何かが起こるたびに、
「どうして?」
「なんで、私だけが?」
となる。
「どうして私が?」
病気になったとき、
「どうして私が?」
と思っていた。
もちろん、そう思って当然だよね。
病気になりたくて
なったわけじゃないんだよ。
だから、
「仕方ないよ」
と言われても、
「仕方ないで済むか!」
と思う。
今でもすごーーーく思う(笑)
でも、
「どうして私が?」
と何度問い続けても、
『病気になった』
という事実が変わるわけではない。
ここが難しいし、悩ましい。
受け入れるって、諦めることじゃない
「諦」という言葉には
「望みを捨てる」
「断念する」
という意味の他にも
「つまびらかに見る」
「明らかにする」
という意味がある、と先日知った。
(「つまびらかに見る」とは、
物事の細かい部分まで、
はっきりと詳しく観察したり
調べたりすることを意味する)
これが、私にはちょっと面白かった。
「諦める」というと、
「もう仕方ないから、全部あきらめよう」
が全てだったから。
でも、
「つまびらかに見る」
「明らかにする」
となると、
「現実をちゃんとみる」
という方向に近い感覚に
なる気がしてくる。
だったら、
「病気になった。嫌だ!つらい!悲しい!」
そこまでを全部、
「事実としてちゃんとみる」。
それだけ。
「それ以上でもそれ以下でもないのでは?」
と思った。
「嫌だ」と思っていい
私が以前考えていた
「受け入れること」はというと、
「病気になったことも、良い経験でした」
みたいに思わなければならない
ような感じで苦しかった。
でも、今は
「そんなこと思えなくてもいい」
と思っている。
病気なんて嫌だった!
苦しかった!
もう二度と経験したくない!!
それでいいのではないかと思った。
大切なのは、
“「嫌だ」と思っている自分まで
否定しないこと”
なのかもしれないね。
執着って、
「欲しい」という気持ちだけじゃない。
「幸せになりたい」
だけが執着ではない。
「不幸になりたくない」
「病気になりたくない」
「死にたくない」
「失いたくない」
「変わってほしくない」
「苦しみたくない」
こういう「拒絶」や「怖れ」の気持ちも、
すべて執着なのだと思う。
でも、これって
人間としてすごく自然なこと。
だから「執着するな!」と言われても、
正直無理。
少なくとも私は
そんなに器用じゃない(笑)。
「じゃあ、どうするの?」って思うよね。
私は、
「執着をなくそう」
とするんじゃなくて、
「そもそも人間って
執着しちゃう生き物だよね〜」
と、ちょっと他人事みたいに
受け入れることから
始めてもいいんじゃないかと思っている。
「こうであってほしい」と願うからこそ、
思い通りにならないと苦しい。
変わってしまうと苦しい。
それが人間なんだ。
だったら、
「執着してしまう自分はダメだ」って、
これ以上自分を責める必要なんて
ないんじゃないかな。
手放すって、全部捨てることじゃない
私はずっと、「手放す」という言葉が
苦手だった。
家族への愛情を手放すの?
大切な人をどうでもいいと思うの?
欲しいものを諦めるの?
・・・そんなふうに思っていたから。
でも、もしかすると違うのかもしれない。
「大切にすること」と、
「絶対に失いたくない」
と握りしめることは、
同じではないと気づいたから。
好きな人を大切にする。
でも、その人を
自分の思い通りにしようとはしない。
目の前の幸せを喜ぶ。
でも、それが永遠に続くことまでは
要求しない。
病気を治したいと願う。
でも、病気になった自分を
「ダメな人間」だとは責めない。
「手放す」って、
愛情や願いを捨てることじゃない。
握りしめていた力を少し抜いて、
『ただそのままを愛する』
ということなのかもしれない。
これって4にたい気持ちとも
関係している気がした。
「こんな人生は嫌だ」
「こんな自分は嫌だ」
「こんな未来は嫌だ」
そう思ったとき、
「だったら、全部終わらせたい」
と思うことが、
今でも、ないわけではない(笑)
でも、
もしかするとその心の奥には、
「現実が、自分の望んだ形に
ならないことへの苦しさ」
もあるのかもしれない
と最近は思うんだよ。
もちろん、希死念慮を全部
「執着」の一言で説明できるほど
単純ではないと思う。
病気には病気としての苦しさがある。
そこは忘れたくないのが
今の私。
ただ、
「こうであってほしい」
という気持ちと、
「現実はそうならない」
という現実の間に、
人間の苦しさが生まれる気もして。
そんなことをとりとめのないことを
考えたりした。
それ以上でも、それ以下でもない。
今日は、それだけ。
それでは。
また次の記事でお会いしましょう✨
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