大正生まれの祖父は、幼少期に両親を亡くし、
親戚の援助はあったものの、何でもひとりでこなしてきた。
戦時中は日本に仕事がなかったため、
中国に出稼ぎに行き、満州にあった大きな製鉄会社で働いていた。
戦争の終わりごろに徴兵され、終戦とともにシベリアに抑留された。
周りがどんどん命を落としていくなか、運と強靭な精神力で、生き延びてきたような人だった。
帰国してからは自分で会社を立ち上げ、80過ぎで癌が見つかるまで、常に精力的に活動した。
青春時代を過ごした中国への思いは強く、よく中国時代の話をし、何度も中国を訪れた。


そんな祖父に、昨年の春、彼を紹介した。
中国人であることは両親が伝えていたが、実のところどう思っているのかは分からなかったので、少し心配していた。
そんな心配をよそに、祖父は「中国は第二の故郷」と言って、彼を家族のように迎えてくれた。

2回目に会った去年の夏は、祖父がこれまでに訪れた中国をはじめアジアの各地について、写真を見ながらたくさんおしゃべりをし、祖父はとても満足そうだった。
「話が合う」と、喜んでいた。
実際は言葉があまり通じていなかったのだけれど、祖父にとっては何か通ずるものがあったようだった。

彼と祖父が最後に会った今年の正月には、彼が病室を訪れることをとても喜び、何度も「ありがとう」と言った。
彼がワシントンDCから送ってくれた絵葉書が届くのをとてもとても楽しみにしており、「これから○○くんが学会に行くたびに、色んな国の絵葉書を送ってもらえる」と話していたそう。
そんな約束はしていないのだけれど、祖父は彼を通じて世界と繋がれる気がしたのだろうか。
国際学会で受賞したことも、自分のことのように喜んでくれた。



中国人と聞くと、どうしても(日本での)社会的地位や、生活の質、教養といった点で、一般の日本人よりもハンデがあると見られやすい。
もちろん、日本に暮らす中国人なかにはいろんな人がいて、ひとくくりになんてできないはずではあるけれど。
そういったイメージが、なんとなくある、ということ。

祖父は、自身が苦労して、与えられたものでなく自分の力で今の私たち家族の生活を作り上げてきたからか、そういった捉われがなく、
自然に、いち人間として彼のことを見てくれていたように思う。
人の目でなく、いつも自分の目でものごとを見ていた。
私はまだまだ世間体とか気にしてしまうところがあるので、
祖父のそういった姿勢には教えられるところが大きい。


時間が経つほどに、惜しい人を亡くしてしまったことを実感する。

おじいちゃんのご冥福を祈ります。