それからしばらくして9月になった。秋雨の季節となり、音子と出会った時期と同じように、しとしとと雨の降る日が続いている。
瑠美と付き合い始めてから、大きく生活が変わることはなかった。しかし、ときどき手をつないだり、ときには口づけを交わしたりなど、少しずつ、恋人らしいことをするようになった。恋人ごっこと言われればそれまでなのかもしれないが、お互い、異性と付き合うということが初めての経験のため、少しずつ進んでいるような状態である。
『じゃあ、私と音子ちゃんは晩ご飯の買い物に行ってるから、お兄ちゃんは家に帰ったら洗濯物の脱水をお願いね』
「りょーかい」
短く返事をして、俺は電話を切る。今日は、瑠美と音子と俺の3人で、一緒に夕食の買い物に行くはずだったのだが、俺のアルバイトが長引いてしまい、瑠美と音子の二人に任せるという形になってしまった。いつかどこかで埋め合わせをしないとな……。
(それにしても、この雨……音子と出会った時期もこんなふうに雨ばかりだったよな……)
家に着いた俺は、そんなことを考えながら鍵を開け、家の中に入る。
「えぇっと、すすぎは……終わってるな。脱水っと」
脱水ボタンを押すと、洗濯機のドラムが回りだす。
「ふぅ……今日も疲れたな……」
一人そう言って部屋で腰を下ろした。
〈ピリリリリリリリ――〉
しばらく休んでいると、俺の携帯が鳴った。
(瑠美?)
ディスプレイを確認すると、瑠美の名前が表示されていた。「また財布でも忘れちゃったのかな?」と苦笑しながら、電話に出る。
「おー瑠美、今日はまたどうし―」
『はぁ、はぁ、お兄ちゃん……。今、公園なんだけど…はぁ、はぁ…変な人に追われてて……。た、助けてっ!』
俺は瑠美が言ってることを把握するのに一瞬の時間がかかった。
「変な奴に追われてるだって!?それで、今も追われてるのか!?」
『うん……はぁ……それで、今、公園の、森のほうに向かってるんだけど』
「公園の森の方だな!」
俺は電話の方に耳を傾けつつ、玄関に走り、靴をはいて外に出る。
『……はぁ、はぁ…買い物が終わった後から…ずっと……はぁ…はぁ……知らない男の人が……ついてくるの……あっ!』
〈ガシャン〉
『あー、電話が落ちちゃったにゃ!』
『だめ、取りに帰ったら追いつかれちゃう……』
電話の向こうで大きな音がし、瑠美の声が聞こえなくなる。
「おい、瑠美ッ!瑠美ッッッ!!」
俺は走りながら、電話に向かって叫んだ。
『……へぇ、“るみ”って言うんだぁー、あのコ……』
突然電話の向こうから、ききなれない男の声が聞こえる。
「お前……誰だ……」
俺は走りながら冷静を装って、しかし、低く威厳のある声を意識して電話の相手に声をむける。
『俺のことなんてどうでもいいんだよ……。それにしても、“るみちゃん”って言うんだ。カワイイ子だよねぇー。ああいう子が一番好みなんだぁ、俺』
「お前……瑠美に何するつもりだ……」
嫌な汗が出る。しかし、それを気取られないように気をつけながら、静かに相手を問い詰める。
『オトコがオンナにすることなんて、決まってるじゃん。あ、俺、あんたの相手してる暇もないんで。それじゃ』
「おい!ちょっと待てよ!!おい!!!」
〈ツーツーツー〉
俺の叫びもむなしく、電話からは無機質な電子音が聞こえるだけだった。
「くそっ!」
俺は、傘を道路わきに投げ捨てて、全速力で公園の森林区域へと走った。
「はぁはぁ……」
俺は降りしきる雨の中、公園の森林区域まできた。
「くそっ……瑠美も音子も……どこにいるんだ……」
森林区域は、遊歩道のエリアと植林エリアに分かれている。遊歩道エリアは一本道となっており、森林区域を大きく一周するように設置されている。植林エリアは、人が踏み入れられないというほどではないものの、人が入るように舗装された道などはない。俺は、遊歩道エリアを走っているものの、瑠美らしい人影は一向に見つからない。
「おーい!瑠美ー!!」
植林エリアに入ったほうがよいのかと思う気持ちもあるが、やみくもに植林エリアに入ってしまうことは得策ではないと思い、遊歩道エリアを走り続ける状態だ。
「瑠美ー!音子ー!いたら返事をしてくれー!!」
「シンヤ!」
俺の呼びかけに、耳慣れた声が答える。
「音子っ!瑠美は、瑠美はどこだ!瑠美は無事なのかっ!!??」
「シ、シンヤ……痛いにゃ……。大丈夫だにゃ、瑠美は無事にゃ。こっちの森の方に隠れているにゃ。」
「そ、そうか……でも、なんで音子だけがここに……」
「シンヤが通りかかったときにだけ声をかけて瑠美のところに連れてくるようにって、瑠美に頼まれたにゃ」
そうか、植林エリアは、相手には見つかりにくいかもしれないが、俺が助けに来た場合にも見逃してしまう可能性が高い。携帯電話があればまだなんとかなったのかもしれないが、不幸にも携帯電話は落としてしまっている。
「よし、じゃあ、瑠美のところに連れて行ってくれ」
「はいにゃ!」
俺は、音子の案内に連れられ植林エリアに入っていった。
1分ほど歩くと、瑠美の姿が目に入った。
「瑠美っ!」
「お、お兄ちゃんっ!!」
瑠美が、涙目で俺に駆け寄ってくる。
「よ、よかった。あのね、私、変な人に追われて。それで、携帯落としちゃって。どこか逃げなきゃって思ったんだけど、どこに逃げればわからなくて、森の方なら見つかりづらいかなって思って、それで……」
「うん……わかった……怖かったよな。よく頑張ったな、瑠美。よしよし」
俺は、瑠美を強く抱きしめ、安心させるように頭をなでてやる。
「うん……うん……怖かった……こわかったよぉ……。ぐすっ……、来てくれてありがとう、お兄ちゃん……」
「瑠美の身が危ないんだから、当然だよ。それに、音子が案内してくれたしな」
「うん……音子ちゃんも、ありがとう」
「当然にゃ」
「よし、それじゃあ、まずは遊歩道のほうにもどって――」
「そうもいかないんだよねー」
俺たち3人以外の声が聞こえる。声がした方に顔を向けると、そこには見知らぬ男が立っていた。
「あっ……な、なんで……」
瑠美が、青ざめた顔で震えだす。
「お前……瑠美を追い回していたやつか……」
「追い回してたなんて心外だなぁ。俺は、追いかけっこをしてただけだよ?あっ、でも、追ってたってことは同じか。ま、別にどっちでもいいんだけど。それよりあんた、そこどいてくれない。ここまで案内してくれたことには感謝してあげるけど、あんた、もう邪魔だから。まったく、どうやってこんな場所を見つけられるってんだよ……」
「俺が……案内だと?」
「そうそう。いくら探しても“るみちゃん”が見つからないから、もう面倒くさいし帰ろうかなーって思ってたんだよ。そしたら、男が必死な顔して森の中を走ってるじゃん?俺は、『あっ、こいつ、さっきの電話のやつだな』ってピンときたわけよ。そんで、思ったの。『こいつについていけば、“るみちゃん”のところに行けるんじゃないかなぁ』って。そしたらビンゴ!いきなり走りやめて横道にそれたかと思ったら、すぐに“るみちゃん”のところに到達!ほんと、何でこんな場所がすぐにわかるんだよ……。まったくエスパーかっつーの。まあ、逆転の発想ってやつ?俺ってかしこーい!」
男はそう言ってケタケタと笑いだす。俺は、心の中で自分の行動の迂闊さを後悔した。……失念していた……瑠美を見つけることばかりを考えすぎて、誰かにつけられているかどうかにまで気をむけられていなかった。
「あー、俺、男には興味ないんだ。あんたはどっか行ってくれない?痛い目みたくないでしょ?」
男は一通り笑い終えると、俺の方を見てそう言った。
「瑠美……ちょっと後ろに下がっていてくれ……」
俺は男には何も言わず、瑠美にそう言った。
「お兄ちゃん?」
「とりあえず、俺があの男をなんとかするから、もし逃げることができるようだったら、隙を見て逃げてくれ」
「お兄ちゃんを置いて行くなんて……そ、そんなことできないよ……」
「あいつの目的は瑠美だ。だから、瑠美は逃げる方が得策なんだよ。で、瑠美はすぐに人を呼んできてくれ。それが一番いい……とは言えないかもしれないけれど、考えられる限りいい方法だと思うんだ」
「でも……ううん……わかった。出来るだけ早く逃げて、すぐに人を連れてくるから」
「よし。頼んだぞ」
その言葉で、瑠美は少し後ろに下がる。俺は、瑠美と男の間に割って入るように位置取る。
「だから、邪魔なんだって。一応、俺、注意したからね?どうなってもしらないよ?」
「あいにく邪魔だからってすごすご立ち去るわけにもいかないものでね。それに、邪魔だったらどうなるっていうんだ?」
「それはねー――」
そう言って、男は懐をごそごそと探る。そして、取り出された手には、黒いプラスチック製の機械が握られていた。あれは……スタンガン!?
「ときどき、俺の言うことをきかないオンナもいるからねー。そういうときは、こいつでバチッとやっちゃうわけ」
そう言って、男は見せびらかすようにスタンガンのスイッチを入れ、バチッと放電させる。
「まあ、気を失っちゃうと面白くないってところもあるけど、そのへんはまあちょっとガマンしてるんだけどね。てことで、今回はとりあえずお前に退場してもらいまーす」
男は、こちらにスタンガンをむけ、こちらの隙を窺っている。……ちくしょう……取っ組みあって足止めさえすればいいかと思っていたが、相手がスタンガンを持っているとなると、少々こちらの歩が悪い。ある程度足止めしていれば瑠美が人を呼んできてくれることも考えられるが、最悪の場合、俺が気を失って、男が瑠美に追いついてしまう可能性がある。
「お兄ちゃん……」
瑠美が不安そうな声をあげる。
「大丈夫……大丈夫だから、さっき決めた通りにしよう」
瑠美の不安を少しでもぬぐおうと、口ではそう言ったものの、俺も心の中では不安をぬぐいきれない。自分だけならまだしも、瑠美のことを考えると、捨て身になることもできない。
「あれ?威勢のいいこと言ったわりに、こないの?じゃあ、こっちからいっちゃうよ?」
男はそういうと、スタンガンを正面に構え、ジリジリと近づいてくる。……こうなったら、相手が飛び込んできた隙に、カウンターでパンチをお見舞いするしかないか……。できれば穏便にすませたかったのだが、相手が道具を持っているとしたら、こちらも方法を選んではいられないだろう。そう決断した瞬間、男が動きのスピードを急激にあげる。
「じゃあね!ばいばーい!」
男は、こちらが武器を持っていないことによる油断からか、まっすぐとこちらに向かってくる。
(よしっ!)
俺は、相手の顔に向けてパンチを繰り出すべく、大きく右足を踏み出し――
〈ズルッ!〉
――その瞬間、足元にあったぬかるみに足を滑らせてしまった。
(しまっ……)
相手の男がこちらに近づき、スタンガンのスイッチを入れる様子が、スロー映像のように見える。男は、完全に勝利を確信した顔で、そのスタンガンを俺につき出す。
(くそっ……なんとか首から上の直撃だけは避けて、気を失わないようにするしか……)
しかし、相手にカウンターをいれる態勢をとっていた腕は、とっさに頭部を守ることができなかった。そして、俺の首にむかいスタンガンがのばされ――
「させないにゃー!!」
――いきなりそのスタンガンに向かって音子がとびかかる。
「「音子(ちゃん)っ!」」
〈バチバチバチ〉
「に゛ゃーーー!!」
音子にスタンガンがあたり激しい音がする。
「な、なんだこれ?」
男は突然の出来事に一瞬混乱し、その瞬間に俺は態勢を立て直し、男の顔に力いっぱい正拳突きを入れる。
「へぎゃっ!!」
男は短い悲鳴とともに倒れ、そして、立ち上がる様子はなかった。どうやら、気絶したようだ。それを確認し、俺は、音子に目をむける。すると、そこには“音子”はおらず、一匹の猫が倒れていた。
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