何というか……。
「自分の考え?」
そんなものを書いていくわけですが、今回は、おそらく、言葉がまとまってないと思います。
かなり小汚い感じになってしまいますし、考えもあっちこっちに飛んでいくと思います。
「そんな文章でもいいよ~」という方だけ見ていってください~。
「自分の考え?」
そんなものを書いていくわけですが、今回は、おそらく、言葉がまとまってないと思います。
かなり小汚い感じになってしまいますし、考えもあっちこっちに飛んでいくと思います。
「そんな文章でもいいよ~」という方だけ見ていってください~。
あと、結構きっついことも書いてるかもしれないので、何て言えばいいのかな……う~ん、夢に向かって走っている人には、あまり向かないと思う文章です。
だから、タクさんの言葉を借りて、「見る方は、自己責任でお願いします」と言っておきます。
基本的には、「頑張る」とか「努力する」ことが嫌いという、そんな自己満足な文章なので、「結論だけ知ればいいや」という方はこれでお戻りください。
だから、タクさんの言葉を借りて、「見る方は、自己責任でお願いします」と言っておきます。
基本的には、「頑張る」とか「努力する」ことが嫌いという、そんな自己満足な文章なので、「結論だけ知ればいいや」という方はこれでお戻りください。
では本題。
某所でちょっと書いたことなのですが、自分は、「頑張る」とか「努力する」ということが嫌いだったりします。
たぶん、この考えは、自分が、「何かをしたときには、リターン(報酬)がほしい」と思うことに起因しているのだと思います。
ここで言うリターンとは、「お金」のこともあれば、「名声」や「地位」や「他人の評価」のこともあります。
たぶん、この考えは、自分が、「何かをしたときには、リターン(報酬)がほしい」と思うことに起因しているのだと思います。
ここで言うリターンとは、「お金」のこともあれば、「名声」や「地位」や「他人の評価」のこともあります。
「誰かが何かプラスなことをしたら、その人は、その行いに比例して、何かしらの利益を得るべきだ」というようなものですかね。
では、「頑張る」ことや「努力する」ことに対して、その「頑張り」や「努力」に比例した利益が与えられるかということになるのですが……。
答えは、「ノー」です。
頑張ったり、努力したりしても、それに見合った報酬は得られません。
仮に、報酬が得られるとするなら、もっとこの世の中は幸せなものになっているでしょう。
頑張った者・努力した者に報酬が与えられるなら、みんな努力をするでしょうしね。
仮に、報酬が得られるとするなら、もっとこの世の中は幸せなものになっているでしょう。
頑張った者・努力した者に報酬が与えられるなら、みんな努力をするでしょうしね。
ちょっときつい言い方になるかもしれないですが、「そのような報酬を与えられないなら、頑張ることに意味はない」と私は思います。
よく、「頑張ったことは事実」とか「後々それが活きてくる」ということも聞きますが……。
たとえ頑張ったとしても、それに見合った結果が得られないなら、(周りから見れば)やらないことと一緒。
後々それが活きてくるかどうかも不確実。
結果が得られなくても「自分は頑張ったから結果がでなくてもいいや。結果はおまけ」と思うのは、単に自己満足のためだと思います。
結果が出てこそ全てだと、私は思います。
また、後々活きてくる前に、死んでしまえば、結局、活かされずに終わりですからね。
よく、「頑張ったことは事実」とか「後々それが活きてくる」ということも聞きますが……。
たとえ頑張ったとしても、それに見合った結果が得られないなら、(周りから見れば)やらないことと一緒。
後々それが活きてくるかどうかも不確実。
結果が得られなくても「自分は頑張ったから結果がでなくてもいいや。結果はおまけ」と思うのは、単に自己満足のためだと思います。
結果が出てこそ全てだと、私は思います。
また、後々活きてくる前に、死んでしまえば、結局、活かされずに終わりですからね。
しばらく前のことですが、ちょっと会話を聞いていて、面白い言葉を聞きました。
「99%の努力を無に帰す1%の才能」
これが、世の中の現実です。
例えば、ある2人の人がいたとしましょう。
彼らは、同じ環境で勉強し、同じ時間だけ勉強し、同じやり方で勉強していたとします。
努力も、同じだけしています。
では、彼らは、同じ結果を得られるか?
おそらく、得られないでしょう。
努力すれば才能を追い抜かせるということはよく言われますが、それは、才能を持つ人が努力しない場合のみです。
走るスピードが同じなら、スタートしたときに前を走っている人を追い抜くことはできません。
酷いときには、相手より速く走っても、絶対に追いつけないときもあるでしょう。
どんなに努力をしても、絶対に越えられないものがあるんです。
頑張っている人が報われないのが、この世界の現実なんです。
「99%の努力を無に帰す1%の才能」
これが、世の中の現実です。
例えば、ある2人の人がいたとしましょう。
彼らは、同じ環境で勉強し、同じ時間だけ勉強し、同じやり方で勉強していたとします。
努力も、同じだけしています。
では、彼らは、同じ結果を得られるか?
おそらく、得られないでしょう。
努力すれば才能を追い抜かせるということはよく言われますが、それは、才能を持つ人が努力しない場合のみです。
走るスピードが同じなら、スタートしたときに前を走っている人を追い抜くことはできません。
酷いときには、相手より速く走っても、絶対に追いつけないときもあるでしょう。
どんなに努力をしても、絶対に越えられないものがあるんです。
頑張っている人が報われないのが、この世界の現実なんです。
と、ここまでは、単なる「考え」のみです。
これだけだと、「そんなことない!」の一言で終わってしまいそうです。
これだけだと、「そんなことない!」の一言で終わってしまいそうです。
ただ、実際に、そういう現実はあります。
例えば、私は、こんな感じの人間ですので、基本的には、(人と比べて)努力はしないですし、他の人と比べれば堕落していると思います。
けど、自分は、(まあ、基準にもよりますが)何不自由ない生活ができていると思います。
けど、自分は、(まあ、基準にもよりますが)何不自由ない生活ができていると思います。
比較して、子どもの頃からの幼馴染(年齢は一つ上ですが)は、昔から、いろいろ苦労をしています。
私からすれば、「あんまりにあんまりな」境遇だと思います。
でも、彼はすごく努力をしています。
けれど、どれだけ努力していても、彼には「あんまりにあんまりな」ことが続きます。
それでも彼は努力をしていますが……。
私からすれば、「あんまりにあんまりな」境遇だと思います。
でも、彼はすごく努力をしています。
けれど、どれだけ努力していても、彼には「あんまりにあんまりな」ことが続きます。
それでも彼は努力をしていますが……。
私がこれだけ満ち足りた……というと語弊があるかもしれないですが、「一般程度」の生活が出来ているのに、彼に辛いことが続くのは、間違っています。
努力相応の報酬が得られないことの証明です。
努力相応の報酬が得られないことの証明です。
他にも、私から見れば「私よりも、断然努力している人」が辛い現実にあうことはたくさんあります。
私なんかよりも素晴らしい人が、自分よりも辛い現実を味わっているんです。
私なんかよりも素晴らしい人が、自分よりも辛い現実を味わっているんです。
では、「お前がその人たちより頑張ればいいじゃない」となるのですが……。
それはノーサンキューです。
それはノーサンキューです。
まあ、以前にちょっと書いたことがあるかもしれませんが、私は「自分が貧乏くじを引くのは嫌」という考えを持っているので。
「貧乏くじ」というとちょっと語弊があるのですが、「他の人がどうだから」といって「自分がどうするか」というのはあんまり好きじゃないんです。
「貧乏くじ」というとちょっと語弊があるのですが、「他の人がどうだから」といって「自分がどうするか」というのはあんまり好きじゃないんです。
……はい、単に、わがままなだけです。
でも、だからこそ、他の素晴らしい人たちが、こんなわがまま自分よりも辛い人生を送っているということがおかしいと思いませんか?
私だけでなくても、みなさんの周りに「なんであいつがあんな幸せな生活してるの?」という人はいると思います。
まあ、その人にはその人なりの苦労があるかもしれない訳ですが……。
少なくとも、幸せな生活をしている人全員がその幸せに見合った苦労をしているわけではないでしょう。
私だけでなくても、みなさんの周りに「なんであいつがあんな幸せな生活してるの?」という人はいると思います。
まあ、その人にはその人なりの苦労があるかもしれない訳ですが……。
少なくとも、幸せな生活をしている人全員がその幸せに見合った苦労をしているわけではないでしょう。
まあ、色々と脱線してしまいましたが、そんな訳で、私は「頑張る」ということが嫌いなんです。
まとまってなくてすいません。
こんなこと、あんまり書くべきではないのかもしれないのですが……。
でも、何か、自分の中で抑えておくことができないというか……。
う~ん……うまく言えないです。
最後までまとまってなくて、本当に、申し訳ないです。
こんなこと、あんまり書くべきではないのかもしれないのですが……。
でも、何か、自分の中で抑えておくことができないというか……。
う~ん……うまく言えないです。
最後までまとまってなくて、本当に、申し訳ないです。