誰かが誰かを心配している。
親は子供を、、、
時に、子供は年老いた親を。。。
先生は、生徒を、
隣の席の人は、風邪の治りかけに出張に行った同僚を。
見かけなくなった近所の人を、、、
そして、遠くにいる、昔愛した人を・・・。
どうぜ、自分のことなんて、誰も心配してくれない、、、
そんなふうに思う人もいるかもしれない。
でも、
案外、そんなことなくて、自分の知らないところ、気づかないところで、その人を心配している人がいたりする。
ただ、目の前にいないから、分らないだけ・・・。
年老いた母親と電話で話をする。
同じようなお天気の話ばかりで、たまに面倒くさいな、とか、
こっちは大丈夫だって言っているのに、声が変だから風邪ひいているんじゃないかって言われて、そんな余計なこと聞きたくないよって思ったり、
ああ、愚痴聴くのも嫌になっちゃうなとか、そう思うことは否めない。
でも、心配事ができたり、具合が悪くなるときに思い出す。
自分が困っている時、何を言っても言わなくても、親だけは私の心配をしてくれるんだな、って。
心配してくれる人がどこかにいるってことは、幸いなこと・・・有難い事。
それを、話するのが面倒くさいなんて、罰当たりなこと、考えてしまう、親不孝者。
でもね、子を持って知る親の恩とはよく言ったもので、
私自身、自分の子供のこと、子供と自分の関係を想うとき、
自分と親のことを反映できて、よくわかるんだ・・・親の気持ちが。
余計なことかもしれないと分かってはいても、心配してしまって、つい口に出してしまって。。。
無条件に心配してくれる人、誰かがいるのは、有り難い。
心配してくれるからと言って、親がその問題を解決してくれるわけじゃない。
もう、そんな年齢ではなくなっている・・・こちらが、親の心配をして、問題を解決する番だ。
でも、ホッとするんだよね、親がそこにいる、と思うだけで。
父が死んだとき、、、何だかわからないけれど、足元が、なぜか揺らいだ。
足元が急に、穴が開いて、不安定になった気分だった。
それは、父が、私の心の、気持ちの上で、(一緒に住んでいなくても)そこに存在している
だけで、どれだけ支えになっていたか、、、ということ。
死んでしまっても、消えるわけじゃない。
父の身体はなくなって、意識は別のところに行っているかもしれないけれど、
必要があれば、こちらに意識は近づいてくれると分かっている。
ただ、そこにいたはずの(会おうと思えば、会えた肉体を持った存在の、そこに生きていた)
父がいなくなっただけで、何とも心もとない気持ちになったことか・・・。
母が亡くなったら、、、もっと、そういうきもっちが大きくなるんだ、と分かっているのにな。
面倒くさいなんて言っているけど、あっちへ逝ってしまったら、きっと、絶対思うんだ、、、
あああ、ああやって電話できていた時に、何でもっと話をしなかったんだろう、、
優しくしてやれなかったんだろう、、、って。
誰かが、どこかで、誰かのことを想っている・・・。
それは、目に見えない、、、遠くの人かもしれない。
名前も知らない、会っても気づかない、知らない人かもしれない。
でも・・・きっといるんだ。
(映画の、K-PAX みたいに、宇宙のどこかに繋がっている相手がいるかもしれない)
人間は、人間の身体を持っているだけじゃない。
意識があって、その意識は、宇宙とつながっている。
だからね、自分は一人で、誰ともつながっていないし、誰も自分のこと分かってくれない、、って
嘆いてしまう、そういう人もいるかもしれないけど、宇宙のどこかには、絶対いるよ。
あなたを、、、想っている人、存在が・・・。
宇宙の誰か、あの世の誰か、、、そして、この世のあの人かもしれない。
地球上で、電話できるところに、その心配する相手、心配してくれる誰かがいるなら、
それは、本当に大事にしなくちゃいけない、、、有り難い繋がり。
でも、そうでなくても、きっとどこかで、誰かが誰かを心配している、、、想っているんだよ。
きっとね。
~了~