最近のデジカメはすごい画素数 | 気がつけばいつも長文。

最近のデジカメはすごい画素数

最近の僕の近況を書きますと
チラシデザインにTシャツデザイン、HP作成に名刺デザインともうやること盛りだくさんの
なんていうか嬉しい悲鳴でございます。

僕なんていうもんにいろいろ依頼してくれるだけでホント嬉しいかぎりで
もう毎日夜遅くまでヒーヒー言いながら脳内妄想装置を叩きながら(なかなか起動してくれないから)
パソコンを見つめて見つめて…の夜です。





と思ってたら、



最近、ショートストーリーを書いてないってことに、大事なことに気付きました。


あかん!

でも時間が足りない。

電車内では本を読みたい!小説だって雑誌だって読むものはたくさんある。
帰ってからもやることはたくさんある。
もはや家でしかできないことをやるしかないのだ。

それでいて、都内で飲んでしまう夜もある。

毎日楽しい?

いいえ。

まだまだ満足できません。

果たして満足いく生活なんて来るんでしょうか。

リア充っていう言葉がありふれるけど、正直よくわかりません。

リアルな生活に充実することなんてあるんですか?
恋人がいてもいなくても、爽やかな夏を経験してもしなくても、
どの時点でもなんか不満があったり、足りてねぇなぁって思ったらそれはリア充ではなくなるんだろうか。

リア充になったら終わりだ。

その言葉はなんとなく合っているような気がします。

誰だってチャレンジャーであって、ゴールを目指して、そこに行き着いてもふと見上げれば
新しいゴールが見えてくるはず。
まだまだ!と思ってまた前に進んだりよじ登ったり。

ま、いいやここで。
と思って立ち止まってしまって、そこが頂点のような高い高いところなら話は別格かもしれない。
それが力の限界とか、頃合だとか、それが妥当な決めてであれば、それは引き際っていう言葉になる。

別に「こんなもんでいいでしょう」っていうのがリア充だとは言わない。
それがその人であって、別に僕には残酷なようであれ関係ない。

言葉ってなんか不思議だ。

前は言葉を集めると、それが一つ一つ刺のようで
それは残酷な意味ではなく、なんか刺激物というかマッサージのとげとげのよう。
ちょうどいいところに刺さると気持ちいいし、関係ないとこだと痛い。
関係ないと思っていても意外に気持ちよかったりした。

今はまるで違って、言葉言葉の文章がムチのようにしなって叩きつけるように見える。

それは痛みなのか、教えなのかわからないけど、結局痛い。

「人は言葉によって支えられている」とか都合のいいコピーに踊らされているが、
そんなことはない。言葉っていう形のないものは口から飛び出すと目には見えないけど形になる。

それは痛みだ。

自分の口から出た言葉でも痛みになる。自分のね。

気をつけていても、それは痛い。

でも痛みがあるから伝わる。

それを忘れないようにしようと思った。

話が脱線しまくったけど、要はデザインとか楽しませてもらってる分、書くもの書いて、
夏はプール行きたいってこと。

あ!ビアガーデンも行ってない!それも。