おこんばんは

もはや古いニュースですが、2011年9月26日にスペインのカタルーニャ州で最後の闘牛が開催されました。
カタルーニャ州はスペイン北東部の州で、州都は日本人の大好きなバルセロナです。

最後の、の意味は、既に来年の1月から闘牛を禁止することをカタルーニャ自治州議会が決定しており、(まだ間があるのに)9月に最後の闘牛を行ったからでした。

スペイン育ちの自分にとって、ショッキングなニュースでした。僕はカタルーニャ州とは反対に、体制側のマドリッドに住んでいたので、カタルーニャ出身者と居住者とは異なる想いを持ったかもしれません。

また、私はスペイン人ではないので闘牛についてとやかく言う資格はないかもしれません。でも、一応現在の考えを書いてみたいと思います。

闘牛の禁止が決まったのは、動物愛護団体が抗議活動を行い、賛同を得られたからです。

闘牛ってご存知ですか?町の中心地にある闘牛場で、闘牛士が剣と赤いマントを巧みに操りながら大きな牛を闘う、スペインの伝統行事です。牛は殺すのです。騎馬に乗った助っ人が、闘牛士がピンチになったら飛んできますが、基本的には闘牛士と闘牛の1対1の命がけの行事です。

町にスタジアムがあるように闘牛場が存在し、プロのサッカー選手と同様にプロの闘牛士が職業として成り立ち、闘牛のために育てられた牛がいます。観客は闘牛士と闘牛の闘いを観る為にチケット代を払ってやってきます。

若かった頃、自分は動物が好きなので、素朴に闘牛は残酷で禁止した方が良いと考えていました。しかし、年を重ねて世の中のことを知るようになると、様々な視点から物事を考えられるようになりました。

私達の大好物のステーキやハンバーグ、吉牛や松屋の肉はどうして食べられるでしょうか。残酷なものは目に見えないようにしているけど、産まれたときから殺されて食べられる運命の牛が誰かによって育てられ、私達はその残酷な場面を知ることも見ることもなく、おいしくいただいてます。
闘牛の牛も、闘牛で殺されるために産まれ、闘牛が終わったら店先に並んで同じように食べられる運命にあります。

結局、人目につかずに処分されるか、華々しく処分されるかどうかの違いなんじゃないのかな。闘牛にとっても、どうせ食べられる運命なら、華々しく散っても悪くないのではないのかな、なんて考えたこともあります。

生命について、市民が一人一人考えることも大事なのではないかと思いました。牛に限らず、鶏の卵だって、最初からヒヨコが産まれない卵を産む鶏を人間が作ったのでしょ。自分は他の動物の犠牲によって生きているのだと認識する機会や体験は、必要だと思います。偉そうなことを言っている自分も、メンチカツやハンバーグが大好きですが・・・。

闘牛の禁止は、今後スペインで広まると思います。でも、いつか必ず闘牛が復活すると思います。未来の世界は、闘牛のように公の場での残虐行為はなくなるでしょう。しかし、個性のない、画一的なフラットな世界が広がり過ぎたときに、若者たちがアイデンティティを求めて、かつて開催していた闘牛を復活させようという運動を起こすかもしれません。


闘牛についての知識があまりないので浅い内容となってしまいました。近いうち、闘牛に関する文献を読んで、考えを整理してみたいと思います。