今日は、東北地方から日本列島の広いエリアに発生した大地震について、主に自分の行動を振り返りながら書きたい。
地震は、2011年3月11日金曜日の午後2時46分頃に三陸沖を震源に発生した。地震発生後の発表では、マグニチュードはなんと国内観測史上最大のM 8.8。阪神淡路大震災の180倍ものエネルギーだとか。
地震が発生した時間、私は五反田にある会社でデスクワークのアルバイトをしていた。最初は小さい揺れを感じ、最近小さな地震は何度か発生していたので、またかと思った。地震が発生した時、たいてい気のせいかと思い、しばらくすると仲間たちが次々振り返って「地震?」と確かめ合い、次第に揺れは収まってルーチンワークに戻るのだ。昨日もそのようにして地震発生を共有したが、揺れが収まるどころかどんどん大きくなる。私は学生の頃に年に一度練習したように、デスクの下に潜り込んだ。4人の仲間の内、2人は椅子にすわったままだ。デスクの下に潜り込んでも地震は収まらず、さらに激しくなってきた。長い。私の脳裏には、最近発生したニュージーランドの地震が浮かんだ。そのうち天井が落ちてきて死ぬんじゃないかと思った。生まれて初めて、地震で命の危険を感じた。
-自分は死んではいけない。被害に遇った仲間たち、家族、友人を助けなければならない。生きなくてはいけない。
そう思いながらデスクの下で揺れを耐えていた。
実際の時間は分からないが、10分くらいは続いたように感じた。揺れがようやくおさまり、デスクの下から抜け出して仲間たちと地震について情報を共有しあった。
震源は三陸沖で、宮城県が大きな被害を被ったらしい。マグニチュードは8.8!!??
その大きさに目を疑った。東京の震度は5。うわっ!
仲間たちと地震についてあれこれ意見をしていると、また大きな揺れが来た。再び私ともう一名はデスクの下に潜り込む。
Yahooニュースを見ると、今度の震源は愛知県。余震は続き、次は茨城が震源だって。東北地方から発生した地震が日本列島に次々と連鎖し、SF小説の「日本沈没」が現実になるのではないかと思った。
東京の地震は、いくつかの小さな余震は続いたけど収まり、他の社員達と一緒にテレビのニュースを観た。ニュースでは、すでに津波が岩手県の景勝地である宮古に襲っている映像が流れていた。いつか訪ねてみたいと思っていた宮古が、津波に流されている。住民は避難する時間があっただろうか。
それから、私は地震の恐怖から心が落ち着かず、元から少なかった仕事も手に付かなかった。胸がざわざわし、コーヒーを2杯飲んで落ち着こうとした。携帯電話から電話をかけてもつながらず、メールは一応送れるけど返信はこない。インターネットで Facebook にログインし、自分の無事を友達に知らせた。返事もすぐに来た。Twitter からもどんどん情報が上がっていた。災害時は、携帯電話の回線はパンクするけど、ネットなら大丈夫だと分かった。スペインにいる家族や友達から、自分の無事を安堵するコメントが書き込まれ、Facebook の心強さを知る。
しかし、一番心配なのは、築50年以上の東京の一軒家に住んでいる祖母と伯父だ。一番心配な人がインターネットに疎い。なんてこった。倒壊した家と、棚の下敷きになっている祖母の姿が脳裏に浮かんだ。家族は頑丈な建物に住み、あるいは勤めているのでそんなに心配していなかった。何度も電話したが、全くつながらない。
(地震後は仕事してないけど)仕事を終え、電車はすべての線が運休していたので、徒歩で3時間半かけて祖母の家に向かった。道は、徒歩で帰宅する人達で溢れており、災害感にあふれていた。途中、何度も祖母の固定電話と伯父の携帯電話に電話をしてみたが、全くつながらない。五反田からは山手通りを通り、初台、新宿を経由してたどり着くことができた。道中、自転車屋さんでは自転車を購入するビジネスマン、ビジネスウーマンもたくさんおり、レンタカーも同様だった。路上は自動車で渋滞していたので、自転車は格好の帰宅手段であるようだ。
★徒歩の写真
首都高閉鎖

白バイ

徒歩で帰宅する人々

初台の巨人

ほうほうのていで祖母宅までたどり着くと、塀にひびは入っておらず、部屋の中もいつもと同じで安心した。夕飯を買おうと入ったコンビニの弁当の棚は空っぽで、しかたなく買ったカップラーメンを食べながら、無事であった祖母と伯父と話していると、3時間半歩いた疲れが徐々に襲ってきた。
テレビは全ての主要なチャンネルで地震速報をしていた。実家がある横浜にも大きな被害が出ていた。ハマボールの天井が落下し、商業施設のビルの地面が割れた。東京の九段会館では卒業式が行われおり、参列していた人の内、2名が死亡した。東京タワーのアンテナは曲がった。電車の多くは運休し、帰宅難民が溢れて複数の大学、東京都庁等が宿泊場所を提供。新宿駅には6000人が立ち往生しており、小田急線を利用する私は帰宅を断念して祖母の家に泊まることを決めた。
祖母と枕を並べてテレビを観るのは子供の頃以来であった。
以上が地震発生日の私の記録である。
地震は、2011年3月11日金曜日の午後2時46分頃に三陸沖を震源に発生した。地震発生後の発表では、マグニチュードはなんと国内観測史上最大のM 8.8。阪神淡路大震災の180倍ものエネルギーだとか。
地震が発生した時間、私は五反田にある会社でデスクワークのアルバイトをしていた。最初は小さい揺れを感じ、最近小さな地震は何度か発生していたので、またかと思った。地震が発生した時、たいてい気のせいかと思い、しばらくすると仲間たちが次々振り返って「地震?」と確かめ合い、次第に揺れは収まってルーチンワークに戻るのだ。昨日もそのようにして地震発生を共有したが、揺れが収まるどころかどんどん大きくなる。私は学生の頃に年に一度練習したように、デスクの下に潜り込んだ。4人の仲間の内、2人は椅子にすわったままだ。デスクの下に潜り込んでも地震は収まらず、さらに激しくなってきた。長い。私の脳裏には、最近発生したニュージーランドの地震が浮かんだ。そのうち天井が落ちてきて死ぬんじゃないかと思った。生まれて初めて、地震で命の危険を感じた。
-自分は死んではいけない。被害に遇った仲間たち、家族、友人を助けなければならない。生きなくてはいけない。
そう思いながらデスクの下で揺れを耐えていた。
実際の時間は分からないが、10分くらいは続いたように感じた。揺れがようやくおさまり、デスクの下から抜け出して仲間たちと地震について情報を共有しあった。
震源は三陸沖で、宮城県が大きな被害を被ったらしい。マグニチュードは8.8!!??
その大きさに目を疑った。東京の震度は5。うわっ!
仲間たちと地震についてあれこれ意見をしていると、また大きな揺れが来た。再び私ともう一名はデスクの下に潜り込む。
Yahooニュースを見ると、今度の震源は愛知県。余震は続き、次は茨城が震源だって。東北地方から発生した地震が日本列島に次々と連鎖し、SF小説の「日本沈没」が現実になるのではないかと思った。
東京の地震は、いくつかの小さな余震は続いたけど収まり、他の社員達と一緒にテレビのニュースを観た。ニュースでは、すでに津波が岩手県の景勝地である宮古に襲っている映像が流れていた。いつか訪ねてみたいと思っていた宮古が、津波に流されている。住民は避難する時間があっただろうか。
それから、私は地震の恐怖から心が落ち着かず、元から少なかった仕事も手に付かなかった。胸がざわざわし、コーヒーを2杯飲んで落ち着こうとした。携帯電話から電話をかけてもつながらず、メールは一応送れるけど返信はこない。インターネットで Facebook にログインし、自分の無事を友達に知らせた。返事もすぐに来た。Twitter からもどんどん情報が上がっていた。災害時は、携帯電話の回線はパンクするけど、ネットなら大丈夫だと分かった。スペインにいる家族や友達から、自分の無事を安堵するコメントが書き込まれ、Facebook の心強さを知る。
しかし、一番心配なのは、築50年以上の東京の一軒家に住んでいる祖母と伯父だ。一番心配な人がインターネットに疎い。なんてこった。倒壊した家と、棚の下敷きになっている祖母の姿が脳裏に浮かんだ。家族は頑丈な建物に住み、あるいは勤めているのでそんなに心配していなかった。何度も電話したが、全くつながらない。
(地震後は仕事してないけど)仕事を終え、電車はすべての線が運休していたので、徒歩で3時間半かけて祖母の家に向かった。道は、徒歩で帰宅する人達で溢れており、災害感にあふれていた。途中、何度も祖母の固定電話と伯父の携帯電話に電話をしてみたが、全くつながらない。五反田からは山手通りを通り、初台、新宿を経由してたどり着くことができた。道中、自転車屋さんでは自転車を購入するビジネスマン、ビジネスウーマンもたくさんおり、レンタカーも同様だった。路上は自動車で渋滞していたので、自転車は格好の帰宅手段であるようだ。
★徒歩の写真
首都高閉鎖

白バイ

徒歩で帰宅する人々

初台の巨人

ほうほうのていで祖母宅までたどり着くと、塀にひびは入っておらず、部屋の中もいつもと同じで安心した。夕飯を買おうと入ったコンビニの弁当の棚は空っぽで、しかたなく買ったカップラーメンを食べながら、無事であった祖母と伯父と話していると、3時間半歩いた疲れが徐々に襲ってきた。
テレビは全ての主要なチャンネルで地震速報をしていた。実家がある横浜にも大きな被害が出ていた。ハマボールの天井が落下し、商業施設のビルの地面が割れた。東京の九段会館では卒業式が行われおり、参列していた人の内、2名が死亡した。東京タワーのアンテナは曲がった。電車の多くは運休し、帰宅難民が溢れて複数の大学、東京都庁等が宿泊場所を提供。新宿駅には6000人が立ち往生しており、小田急線を利用する私は帰宅を断念して祖母の家に泊まることを決めた。
祖母と枕を並べてテレビを観るのは子供の頃以来であった。

以上が地震発生日の私の記録である。