待ちに待った連休の5月1日。
天気は快晴で、横浜からバイクに乗ってアミュー立川へ向かった。
親友を誘って、ノムさんこと野村克也元監督のトークショーへ行ってきた。

会場は2階席まで満員。気楽な気持ちでチケットを買ったけど、
こんなに人気があることに驚いた。

司会者がノムさんの輝かしい実績を紹介した後、舞台の左袖から我らがノムさんが
登場した。会場から大きな拍手。

「ふうっ。。」と最初の一言はため息とも、舞台中央まで歩いた疲労ともとれた。
「すごいプレッシャーだなあ。連休は昨日から始まったんだよね。他にもっと
楽しいことなかったの(会場から笑い)。今日は西武の試合があるんだっけ。
せっかくの休みにわざわざ無駄な時間を過ごさなくても良いのに」。
といった感じで、いつものぼやき節で始まった。

話は、自分の生い立ちから始まった。ノムさんの父は戦死して、父の記憶がないとのこと。
さらに悪いことは続いて、母親が子宮がんを患い、自分と3つ上の兄と知り合いの家に
お世話になった。この時ほど母親のありがたさを感じたことはなかった。
他人の家で「お腹がすいた」とは言えなかったのだ。
母は一度家に戻ったが、癌が腸に転移して再度手術した。回りのおばさん達の、もう母親は
治りそうもない、遺された子供たちは一体誰が世話をするんだろうね、という言葉が
幼いノムさんにも届いて、兄貴に話してみたら考え込んでだまってしまった。

なんとか母親は家に戻ることができたけど、母子家庭で子供時代は大変貧乏だったそうだ。
「もう貧乏なんて嫌だ。俺は金持ちになる。どうしたら金持ちになれるだろう」と
中学生のノムさんは考えた。丁度その頃、美空ひばりが人気を博していたので、
「そうだ、金持ちになるために歌手になろう」と考えた(笑)。
今聞くと笑ってしまうけど、けっこう真剣だったそうな。
音楽部に入り、毎日歌の練習をしていた。ピアノを弾く仲間が持っていた楽譜を見て、
「お前、そんなの読めるの。お前、天才だなあ!」と言うほど、音符のオタマジャクシ
が読めなかったらしい。歌の練習をしても全然うまくならず、仲間にどうしたら
歌が上手くなるか聞いてみたところ、「喉をつぶすのが良い」と言われ、ノムさん
は海に向って大声をあげる練習を始めた。3日目にようやく声がかすれてきて、
母親が心配して「お前、その声どうしたの」と聞くので、「いや、ちょっと風邪をひいた
だけだよ」とごまかした。結局、自分には歌手の才能がないと1年で諦めた。

お金持ちになる別の方法を考えていたら、映画ブームがやってきた。
その頃は坂東妻三郎などが人気で、坂妻が演じていたのを真似して、箒を持って
「首一本!」バサッ、と悪役をやっつける遊びをしていた。ある日、鏡の前で
ジーっと自分の顔を見たら、「この顔じゃ役者はダメだな」と思って役者になる
夢はあきらめた(笑)。

この話を、仲代達也と対談した時にしたら、仲代は大きな目を見開いて
「惜しいことをしましたねえ!」と言ったので、驚いてどうしたのか聞くと、
ノムさんほど野球界で一流になれた人なら役者でも一流の役者になれただろうと
仰った。ノムさんも良い調子になって、もし自分が役者になったらどんな役者に
なったか仲代に聞いてみたら、志村喬みたいな役者になっただろうと仰った。
志村喬は黒沢明監督の映画のよく出た役者で、テレビで昔の映画を観ていて
志村喬が出ると、「これが俺だったのか」と思いながら観るそうだ(笑)。

歌手も役者も諦めて、野球しかなくなって野球の練習をしたが、家が貧乏だから
毎日母親との闘いだった。母は学校が終わったらすぐに家に帰って色々手伝いを
して欲しかったのだ。それでもノムさんは野球の練習に出て、毎日バットで
素振りの練習をしていた。ある日、いつも置いてあるところにバットがなく、
母親に聞くと「ちゃんと探したの」と言う。狭い部屋だから一目見れば分かるので、
さては母親が隠したのだなと思い、たまたま縁側の下を覗いたらバットが
転がっていて見つけた。

新聞を見ていたら、南海ホークスがテスト生を募集していたのを目にした。
合格したらプロになってお金持ちになれるかもしれないと思い、受けてみること
にしたけど、自分が住んでいる京都の田舎からの旅費がない。部活の部長に
頼んでみたら、いいよ、出世払いで、と旅費を出してくれた。

そうやって南海ホークスのテストに参加することができた。
テストでは300人近くが全国から集まってきた。当時の強豪校からも選手が幾人か
来ていたそうだ。テストは投げる、打つ、走る、遠投の4つで、自分は一番自信がない
遠投のテストから始まった。300人しかいないのに、自分のゼッケンは600番台
で、今だに謎だそうだ。

遠投は90メートルの距離を飛ばせないと不合格だそうだ。自分は肩に自信がなく、
距離をはかったことがない。1回目を投げたらあと少しで届かなかった。「どうしよう」と
思っていたら、ちょうど後ろに後の先輩になる選手が、いかにも何でもないという
感じで近づいてきて、「前へ行っていいよ」と5メートルもラインより出させてくれて
遠投は合格できたそうだ。今もその先輩には恩を感じている。
あのとき先輩が助けてくれなかったら今の自分はいないと、ぞっとするらしい。
先輩には足を向けて眠れない。

テストは最後に30人くらい残り、南海の人が名前を読んでさらに人数を絞っていった。
最後の人が呼ばれ、ついに自分の名前は呼ばれず、「あー、不合格だ」と
落ち込んでいると、南海の人がニヤニヤしながら自分の顔を見ている。
「人の不幸を笑いやがって。イヤな奴だ」と本当に睨んだらしい。
すると、ニヤニヤしていた南海の人は、「今名前読んだ人、ご苦労さん。君たちは
不合格だから帰っていいよ。名前を読んだ人は合格だから残って」と言った。
今まで生きてきて、合格した人が名前を呼ばれるのが普通でしょう、だから
意地悪されたんですよ。

テスト生になって1年間は試合に出させてもらえなかった。
契約更新の日になって呼び出されると、
「野村、お前とは契約しないことになった。別の仕事を探してくれ。クビだ」
と言われた。
「そんな、私は何もしていませんよ。せめて1試合出させてください。
試合に出てだめだったら諦めもつくから。しかも就職なんてできるはずもないじゃないですか。お願いします。1試合出してください」と粘った。
ノムさんは南海の選手として故郷を離れる時、村長まで出てきて、まるで戦争に行くときのように、「野村克也くん、万歳!」
と送別されたので、1年でクビになって故郷に戻るなんて恥ずかしく、粘りに粘った
らもう1年契約してもらえることになった。

チームを選ぶとき、自分は試合に一人しか出られないキャッチャーだったから、
20代のキャッチャーがいるチームは候補から外したら広島と南海が残った。
広島と南海の選手は30代で、あと3,4年もしたらくたばるだろう(笑)、
そうしたら自分が代わりのキャッチャーとして試合に出られると予想した。
本当は巨人ファンだったけど、巨人は選手層が厚いから候補から外したのだ。
自分の予想はあたり、南海に入って4年たった先輩のキャッターが衰えて
自分が試合に出られるようになった。その先輩は言った。「なんで野村なんだ」と。
存在も知らなかったと。

こんな感じで話していると終りの時間が近づいてきて、あわてるようにして
ノムさんが資料を読み始めた。成功する人の15の共通すること、みたいなことが
書いてあるリストだ。あまり覚えていないけど、印象に残ったのが、

・逆境の時に楽観的であること

という項目。
ノムさんは、「私はこれは苦手で。だから楽天(イーグル)とは合わなかった」
とふいに漏らすボヤキが面白かった。

最後の挨拶は
「今日は貴重な連休に、無駄な時間を過ごしに来ていただきありがとうございました。
悪いのは私ではありません。企画した人が悪いのです。
明日はきっと良い日になるでしょう。」

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活字にしてみたら、まるでノムさんの面白い雰囲気が表現できなかった。
これは、私の言語表現不足と思って諦めてほしい。