あけましておめでとうございます!
遅くなったけど、2010年初めてのブログなので
一応ご挨拶した。
余談だが、自分にしては珍しく、年末から年明けにかけて
同じ高いテンションのままで年を越すことができた。
例年は、変に自省的になって、早くこの1年が終わってしまわないかと思っていたけど、2,010年は違った。来年はもっと良い1年にしようと思いながら年を越したのだ。仕事に対する取り組み方が分かってきたからかな。
2000年代が終わり、2010年代はきっと良い運命が待ち受けているのだろうと思う。
閑話休題。
このまえ、京都に1泊2日で行ってきた。京都を訪れるのは3年連続になるのだが、初めてまた訪れたいと思った。旅費があれば、毎週末、京都に行きたくてしょうがない。
#3回行ってる理由は、家庭の事情のためである。
この前の京都訪問で何を感じたのか、その時のフィーリングを思い出しつつブログりたい。
訪れたのは仁和寺と大徳寺で、
今回は大徳寺で枯山水を見ることができる
龍源院と大仙院について触れたい。
ちなみに、大徳寺を訪れたかったのは、司馬遼太郎の
「街道をゆく 34 大徳寺散歩、中津・宇佐の道」
を読んだからだ。一休さんとして知られている一休宗純、千利休など、歴史上の一流有名人とゆかりのある禅寺の大本山なのだ。
上記の寺の枯山水を見る前は、自分の枯山水に対する見方は少々斜に構えていた。禅が世界でブームになり、外国でも枯山水を自宅で作れるミニ枯山水キットなるものも発売されていた。
また、みんなが京都は良いと言っているので、なんとなくメインストリームに簡単に乗りたくない気分もあった。京都なんて寺しかないじゃん。伝統が重すぎて住んでみる気にはならないよ、等。
枯山水にも、なんで単なる庭に色々と理屈をつけないといけないのか、いかがわしい。などと思っていた。
そんな醒めた気持で、始めに龍源院の枯山水を鑑賞した。龍源院にある枯山水の模様は、定規で引いたように模様がピシッとしている。庭園の前に腰を下ろし、枯山水を眺めていると、心が落ち着かない。
なんというか、精神を矯正されているような居心地の悪さを感じた。長時間はいられなかった。
全くのど素人の考えだが、禅僧はこの庭園を眺めては、精神を引き締めているのではないのだろうか、と想像を巡らした。庭園まで修行の材料をしてしまうことに、禅のすごさを感じた。ほうきで砂利に描く模様によって、それを見た人に異なる感情を起こさせるのだ。これはすごい芸術だと思った。
また、その時の自分の感情の状態によっても、同じ枯山水を見ても受けるイメージは異なるだろう。この時は、精神を矯正されるようだと感じたけど、生活が乱れている時でしっかりしたいと思っている時などには、落ち着いた気分になるのではなかろうか。
次に訪れた大仙院の枯山水は全国的に有名である。大仙院は、ガイドがついて自分のペースで見られないのが少し困ったけど、スケールの大きさに驚いた。大仙院には大小いくつかの枯山水があり、最後に大海に注ぐという物語性がある。
最後の枯山水は、龍源院とは異なり、模様にはウェーブがかかっていて正に大海、というイメージだ。
庭に前に座って鑑賞していると、大きなものに包まれているような安心感を感じた。龍源院で気持ちを引き締め、大仙院で修行を終えた疲れを癒す。とまあ、禅僧はそんな都合の良い具合にはゆかないのかもしれないが。
自分が禅僧だったら、枯山水によって修行する寺を使い分けたいが、実際どうなのだろう。毎日同じ寺に勤めるのだろうか。もし自分が修行するのだったら、大仙院を選ぶだろう。
余談だが、大仙院には国宝 玄関がある。玄関??
そう、あの玄関の基になった形は、この大仙院の玄関なのだ。元々はすごく長かったのが、どんどん短くなったらしい。こんなレアなものも見られて、なかなか京都は面白かった。
さて、京都にかぶれてしまった私は、全国の枯山水を鑑賞する旅がしたくなった。観た時に受ける気持ちの違いを楽しみたいと思っている。まずは、地元横浜で見られる枯山水をリサーチすることから始めたい。そもそも、あるのかな。
遅くなったけど、2010年初めてのブログなので
一応ご挨拶した。
余談だが、自分にしては珍しく、年末から年明けにかけて
同じ高いテンションのままで年を越すことができた。
例年は、変に自省的になって、早くこの1年が終わってしまわないかと思っていたけど、2,010年は違った。来年はもっと良い1年にしようと思いながら年を越したのだ。仕事に対する取り組み方が分かってきたからかな。
2000年代が終わり、2010年代はきっと良い運命が待ち受けているのだろうと思う。
閑話休題。
このまえ、京都に1泊2日で行ってきた。京都を訪れるのは3年連続になるのだが、初めてまた訪れたいと思った。旅費があれば、毎週末、京都に行きたくてしょうがない。
#3回行ってる理由は、家庭の事情のためである。
この前の京都訪問で何を感じたのか、その時のフィーリングを思い出しつつブログりたい。
訪れたのは仁和寺と大徳寺で、
今回は大徳寺で枯山水を見ることができる
龍源院と大仙院について触れたい。
ちなみに、大徳寺を訪れたかったのは、司馬遼太郎の
「街道をゆく 34 大徳寺散歩、中津・宇佐の道」
を読んだからだ。一休さんとして知られている一休宗純、千利休など、歴史上の一流有名人とゆかりのある禅寺の大本山なのだ。
上記の寺の枯山水を見る前は、自分の枯山水に対する見方は少々斜に構えていた。禅が世界でブームになり、外国でも枯山水を自宅で作れるミニ枯山水キットなるものも発売されていた。
また、みんなが京都は良いと言っているので、なんとなくメインストリームに簡単に乗りたくない気分もあった。京都なんて寺しかないじゃん。伝統が重すぎて住んでみる気にはならないよ、等。
枯山水にも、なんで単なる庭に色々と理屈をつけないといけないのか、いかがわしい。などと思っていた。
そんな醒めた気持で、始めに龍源院の枯山水を鑑賞した。龍源院にある枯山水の模様は、定規で引いたように模様がピシッとしている。庭園の前に腰を下ろし、枯山水を眺めていると、心が落ち着かない。
なんというか、精神を矯正されているような居心地の悪さを感じた。長時間はいられなかった。
全くのど素人の考えだが、禅僧はこの庭園を眺めては、精神を引き締めているのではないのだろうか、と想像を巡らした。庭園まで修行の材料をしてしまうことに、禅のすごさを感じた。ほうきで砂利に描く模様によって、それを見た人に異なる感情を起こさせるのだ。これはすごい芸術だと思った。
また、その時の自分の感情の状態によっても、同じ枯山水を見ても受けるイメージは異なるだろう。この時は、精神を矯正されるようだと感じたけど、生活が乱れている時でしっかりしたいと思っている時などには、落ち着いた気分になるのではなかろうか。
次に訪れた大仙院の枯山水は全国的に有名である。大仙院は、ガイドがついて自分のペースで見られないのが少し困ったけど、スケールの大きさに驚いた。大仙院には大小いくつかの枯山水があり、最後に大海に注ぐという物語性がある。
最後の枯山水は、龍源院とは異なり、模様にはウェーブがかかっていて正に大海、というイメージだ。
庭に前に座って鑑賞していると、大きなものに包まれているような安心感を感じた。龍源院で気持ちを引き締め、大仙院で修行を終えた疲れを癒す。とまあ、禅僧はそんな都合の良い具合にはゆかないのかもしれないが。
自分が禅僧だったら、枯山水によって修行する寺を使い分けたいが、実際どうなのだろう。毎日同じ寺に勤めるのだろうか。もし自分が修行するのだったら、大仙院を選ぶだろう。
余談だが、大仙院には国宝 玄関がある。玄関??
そう、あの玄関の基になった形は、この大仙院の玄関なのだ。元々はすごく長かったのが、どんどん短くなったらしい。こんなレアなものも見られて、なかなか京都は面白かった。
さて、京都にかぶれてしまった私は、全国の枯山水を鑑賞する旅がしたくなった。観た時に受ける気持ちの違いを楽しみたいと思っている。まずは、地元横浜で見られる枯山水をリサーチすることから始めたい。そもそも、あるのかな。